第10回クリエーターズ・ネスト 辻原登さん <朗読>
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冬の旅

物語は、緒方隆雄という男が「もう二度と戻ってくるなよ」という声を背に滋賀刑務所から出所する場面から始まる。5年ぶりのシャバの空気を吸う。緒方は40前の痩せた男。あるのは作業報奨金17万と身の回りの物だけである。彼はどこで人生を踏み外したのか。とにかく、シャバに出たものの、わずか3日で金は底をついた。そして、彼の長い回想が始まる・・・それは、「悪い方へ悪い方へ」という負のグラディエントを下るような己の運命なのである。本書は、孤独な旅路を歩む男の過去を、その運命の苦さを真正面からとらえ描く。彼は、ささいなことがつまずきとなり、不幸に見舞われるが、いつも偶然のように出来事に巻き込まれるのだ。妻の失踪、解雇・・・阪神・淡路大震災。そのたびに緒方はつぶやく・・・“わけがわからん”。転落していく姿の向こうには、生きにくい現代がひかえている。やがて、彼は自分の最初の躓きの原因となった或る邪悪な青年との出会いに気付くのである。緒方の人生は、その出会いによって決定づけられる。恰も、皆さんご存知のカオス現象のように、その邪悪な存在により、緒方の人生の予測は不可能になる。すべては、偶然に支配・翻弄されるのである。それは、著者の記述を読んで見ればお分かりになるでしょう。緒方を含むすべての登場人物たちの直面する出来事が・・・すべて偶然であるからです。したがって、主人公の心の内面や心理状態は故意に描かれていないのであろう。運命を甘受する人間に自由はあるのか、あるとしたら、それはどの様なものか。それは、読者自身が考えることでしょう。人間は、抽象的な虚空な闇の空間に・・・。
頭を柔らかくしてお読みください。読みごたえは十分でしょう。



東京大学で世界文学を学ぶ (集英社文庫)

 作家・辻原登が2009年春から夏にかけて東京大学で14回行った近現代小説の講義をもとに編んだ一冊です。その分野の専門家にとってどれほどの価値があるかは分かりませんが、文学部出身でなく、ただ手当たり次第に興味を引かれた古今東西の小説を手にして生きて来た私にとっては、ここに書かれていることは大変新鮮で刺激的なものでした。

 近代文学が個人の混沌とした内面を言語で表現することを重視して発展してきたというのはなるほどと頷ける点です。そこに二葉亭四迷ら明治の近代作家たちが大いに悩んだ姿を思うに、私たちの先達たちがたどった苦難の道の遥かなること、そして豊かなることを思わざるをえません。

 後段、『ドン・キホーテ』『ボヴァリー夫人』『白痴』の3大小説を読み解きながら進める文学論は知的冒険の旅を味わう思いがしました。まさに著者が記す次の通りの読書体験を味わうことの興奮を再認識したように思います。

 「読むという行為。向こう側に小説の中を流れる時間があって、そしてこちら側に我々の生きている時間があり、それが、読む時間の中で一つになる。この時間の感覚が『リアル』というもののほんとうの意味だと僕は思います。芸術を鑑賞するときのリアルというのは、まさにそういうふうに、我々が生きている時間と作品の中を流れる時間が一つになったとき。その時、我々はほんとうの意味で感動する。それがリアルです。」(178頁)

 6年前に読んだ著者自身の小説『枯葉の中の青い炎』を執筆するに至る道程や、去年手にした『抱擁』に関するパスティーシュ論が記されていた点も大変興味深く読みました。

 古典文学を何か一冊手にとって、この本に書かれていたことを確かめてみたいという気にさせる書でした。



許されざる者 (上) (集英社文庫)

大河ドラマを見終わったような充足感が得られる。著者の力作!で、並々ならぬ思いが伝わってくる。その上、細かいところまで大量に多彩なものを取り込んでいて、これが絵本ならば、さしずめ安野光雅の『旅の絵本』のように、よく見ると、こんなところにこんな人や物が描かれている、といった感じだった。あくまでフィクションだとは思うが、ジャック・ロンドンが日本とこんなに関わったことが不思議だった。また夏目漱石、森鴎外、田山花袋、頭山満、幸徳秋水なども登場する。それに正露丸も征露丸と書かれ、そういえば日露戦争下で、そういう名前で売り出したんだっけなあ〜といったトリビアも織り交ぜられている。

 舞台は著者の出身である和歌山。森宮(しんぐう)と読ませている架空の土地は、恐らく、新宮がモデルなのだろう。主人公は「毒取ル」とあだ名された医師の槇。アメリカでドクトルの学位を得て、カナダで1年経験を積んだのち帰国。その後インドで修業を積んだのち帰国。そこからがいよいよ物語の幕開けとなる。日露戦争前からその後の森宮を中心にストーリーが進んでいく。

 タイトルの許されざる者とは、とある恋に落ちた者をさすのだろうけれど、当事者だと2人なので、単数形なのは日本語的意味でなのか、そのうちの片方だけ、本当に1人だけなのか、こういうとき、英語は便利といえば便利だ。

 槇には、非常に美しい千春、肺病を患っている建築設計士の勉という親戚がいる。槇がインドに行っている間、千春は何者かに毒殺されかける。その後、槇が帰国してから犯人らしき者が判明し、その後も千春を巡っては、さまざまな男性が思いを寄せ、また身近にいとこだと言う者が現れ、またそこから騒動がわき起こる。

 しかし本当の騒動は着々と進められていた。各国のグレート・ゲームや時代の流れで、日本もその時流に乗ろうとしていた。「言葉が、それに対応する現実から遊離し、言葉だけで世界が成り立っているかのように錯覚して、それで人を動かそうとする。アジテーションと狂信的世界のはじまりだった」。そして熊野革命5人団も結成される。

 日露戦争が起きると、登場人物それぞれの運命が大きく動き出す。もしあの時、少しでも違っていたら、とも考えられるが、本書では、なるようになるという結果につながっていく。多少、あまりにも多くのことを盛り込みすぎた感があり、散漫な感じがするものの、下巻の後半から、なるようになっていく運命が中心に描かれていくことで、まとまりが出る。(これも予想に違わないため、物足りなく思う人もいるかもしれないが)ただ、和歌山は『紀ノ川』のイメージが強く、『紀ノ川』を読んだ時の感動が大きかったので、これを乗り越えるのは自分の中ではなかなか難しいかもしれない。



第10回クリエーターズ・ネスト 辻原登さん <朗読>


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