発掘され尽したと思われた国枝史郎の作品に、東京を舞台とした探偵小説がまだあったとは!しかも長篇ではないか! おまけに近年の分厚い国枝本と違って手頃な普通サイズのハードカバーなので寝転がって楽に読めるのが嬉しい。早速購入し一気に読んでみた。
新婚の深井正彦・万里子夫婦は「花嫁列車」に乗り熱海の別荘へ。その夜、正彦は何者かの手によって殺害される。 正彦の友人で本篇の主人公・隠岐健次(新聞記者)は調査に乗り出すが、あたかも帝都では人を殺めず麻酔を操る謎の怪盗「影なき男」が跳梁していた。 そんな中、隠岐の恋人・堀口美紗子にも麻酔魔の手が…。
戦前の長篇探偵小説に見られるルブラン調。モダン都市東京の雰囲気はそれなりに。交換手のいた当時の電話トリックがなかなかよろしい。 昭和12年の執筆。女が身体を餌に男を欲情させるシーンは、時局柄もう一年遅かったら地方新聞といえどもこんな煽情的描写は横槍を入れられていたと思う。 国枝だから正当派の謎解きは最初から期待していなかったが、髷物の如きプロットの暴走はなく意外とカッチリした仕上がりで、 探偵小説ファンはともかく国枝ファンからするとそこは不満かもしれない。
エンターテイメントを意識して書いたそうなので、連続する賊の標的を結ぶ条件に主人公が直感で気付く点など惜しい弱点は散見されるが、さほど気にならない。 最も残念なのは、本作は全146回連載なのだが、127回・142回・144回分が欠落している事。しかも終盤の謎が解明される場面なのだ。 確かに大筋の理解に問題はないが、これはなんともイタイ。 関係者の方はきっと随分探されたことと想像するが、初出新聞『南信日日新聞』の欠落回該当号は残存していないのだろうか…嗚呼…。 この欠落さえなければ、★5つだったのに。
最初に読んだのは桃源社「大ロマン復活シリーズ」だった。 たぶん、シリーズの最初の刊行が本書だったと記憶している。 同シリーズは小栗虫太郎、海野十三、橘外男などの当時は入手が難しかった諸作を復活させ、再評価の機会を与える優れたものだった。
さて、本書である。 国枝伝奇の白眉とされているが、その錯綜したストーリーは確かに伝奇物といって間違いはない。 背景には父子や兄弟の相克が描かれており、著者はあまり意識してはいなかったのかもしれないが、裏テーマといえるだろう。 だから、ある意味では家族物とも分類できないこともない。 ただし、もっとこのテーマが深く掘り下げられていたら、という条件がある。
もし、本作が中絶ではなく完結していたら、はたしてどのような結末になっていたのだろうか。 著者のイマジネーションを考えると、とても予想することはできない。
しかし、本作の読後の余韻は、未完だからこそのものであるのも、また確かなことなのである。 これは著者の「蔦葛木曽桟」とは異なり、まったく集束の気配のないままの中絶という本作の状態は、余韻を感じるのとともに、突然空中に放り出されたような、非常に不安定な気分になることは間違いない。
かなりグロテスクな内容であり、描写もかなりエグい。 しかし、大衆文学のある方向に極端にふったという意味では、大衆文学の歴史を知る上でも意味のある作品であり、一読する価値がある。 そして、その幻想世界の味をしめると、また再び味わいたくなるという、麻薬のような魅力を持った作品である。
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