ウソだろーーーーーーー!寺山修司の初長編に森山道山が写真を衝けた!?今を遡ること40年前の新宿を妙に克明に描いたこの小説に森山の40年前の新宿の写真がズラリと並ぶ。ただの復刊にせず、寺山の死を超えて森山を並ばせた企画者に感謝するばかり。どんな賛辞も足らない見事な復刊業である。
そうでなくとも語られ、語り継がれ、語ることの尽きぬ二人の作品をここで60年代に物心もついていなかった僕が何を語っても羞恥の限り。想像を越える当時の東京をヴィジュアルで補完してくれるのが森山だ、言うことはない。一点、「あしたのジョー」に心酔していた寺山がボクサー<バリカン>をメディアにして語ったこの一冊。勇ましくも情けない、情けなくも果敢な姿。町を徘徊する野郎ども、読んでおけ。襟を正せ。着ているTシャツとパーカーに襟がなくても。あ、オレか。。。
現在のパヴァロッティとは違った若きパヴァロッティに改めて感動。若いときのものはストレートな表現の中にも彼独特の包容力たっぷりの甘い歌声。絶品です。パヴァロッティおたくであるなら、是非、聴いてみてください。何度も繰り返し聴きたくなって、しばらくの間は、はまること間違いなし。1966年から1996年まで、幅広い年代のものが聴け、声の微妙な変化も楽しめて、最高です。
700ページ、十五章(15ラウンド)に及ぶ<寺山・小説>×<森山・写真>のタイトルマッチ(と言っても、その関係性は“ガチンコ”と言うよりも、寄り添うような、本書の新宿新次、バリカン戦のアニキ・弟分関係を想わせる)。寺山は「あとがき」でこの小説の意図をこう記している。「ふだん私たちの使っている、手垢にまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出すこと」。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズのコラージュによって垣間見る「もう一つの世界」。そして森山の写真もまた同様のコンセプトを持つ。日頃見慣れた風景の羅列が「もう一つの世界」を垣間見せてくれる。森山が「あとがき」で「寺山さんのレトリックやメタファーやドラマツルギーのほとんどがぶち込まれていて、他に類のない長篇叙事詩」と評しているが、「あゝ、荒野」はまさに、寺山修司の集大成、“寺山ミュージアム”といった趣がある。
概要は2人の「あとがき」の通りなんだけど、この面白さは、勿論700ページを「見て」「読んで」はじめて味わうことが出来る。
「荒野」とは何か?それは、“真っ暗な口のなか”であり、“一望のネオン”である。都市の荒野、ニキビの荒野、「非政治化」の荒野、性の荒野、シーツの荒野、四畳半の荒野、酒場のカウンターの荒野......、荒野は時と場合でその姿を変える。そして、荒野で生きていく人々は、誰もが拙く人との関係性を紡ぎ、自らの存在を確かめる。それは盗むことで人から憎まれることだったり、殴り倒されることでのっぴきならない関係を得ること、だったりする。その悲しさって今でもリアルだ。
寺山のアフォリズムの数々は40年が経った今でも錆び付いていない。それどころか当時よりもさらにディスコミュニケーションが進行する現在、その洞察力、彗眼はますます存在の重みを増しているように思う。
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