作家は一般に書き出しに苦心するというが、この作家の書きだしはうまい。
冒頭は、以下のとおり。「眠りの深い霧の底から、ゆっくりと浮かび上がってくる過程に、優しい風の予感があった。すっかり眼覚めた時、彼女の口元には微笑が浮かんでいた。薄絹のヴェールが顔の上をそっと撫でていくひんやりと冷たい感触。季節が変わったのだ。微睡の最後の一時を、なおも貪りたがっている重い瞼を、無理矢理に押し開くと、上下の睫の透間から、カーテンが青いスピニカのように膨らむのが見えた。顔の上に吹いている微風は、潮風だった。そこでやっと、自分が何処で目覚めたのか思い出す」(p.7)。 そして、性愛の描写も。わたしは、こうはとても書けない。「白いシーツに包まれて、彼女は巧みに裸にされ、二つの肉体のどの部分も、申し分なくぴったり触れ合った。沈黙が支配する完全なる性愛。沈黙は好ましい馴れ合いなのだ。言葉が表現するには、あまりにも深い一致がある。寝台は安全で快楽の舟だ。ゆるやかに揺れながら、やがて二人の肉体は次第に熱を帯びて、汗で薄っすらと輝き、最後にひとつの美しい橋になる」(p.9)。
「嫉妬」は表題どおり、不倫の夫に対する妻の「嫉妬」を扱った小説。海外勤務が長かった壮一郎、麻衣夫妻(曜子という娘がひとり)が同僚・北原の荒崎の別荘で過ごしているとき、彼らの散歩中、若い男女が波にさらわれた、壮一郎は救助のために海に飛び込むが、女性は死亡。壮一郎と男性(アラン)は瀕死の状態であった。壮一郎はそこで自分に女(北原の妹)がいることを麻衣に告げる。そこから激しい口論、意思疎通の断絶、嫉妬へ。
嫉妬の表現、言動、しぐさの深読みはリアルで、怨念の深さは怖い。他に「凪の風景」「彼女の問題」「海豚」。男女の人生観、生活観、価値観の確執を抉り出しながら、女性の女性たる所以を表現していく小説の方法がユニーク。
ピアノをやっている私にとって、”芸大ヴァイオリン科卒の作家”森瑤子さんはいつも気になる存在でした。 森さんのまん中のお嬢さんのマリアさんは、森瑤子さんが生前、優しさの故、言いたくても言えなかった、書きたくても書けなかった森さん自身をお母様に代わって本にしてくれた様な気がします。 一見、華やかそうに見える国際結婚の舞台裏... いつもお洒落で輝いていた森瑤子さん。この本を読むとそんな彼女に隠れていた本音を聞く様な気がして、本当に切なくなります。
今は亡き森瑤子氏が、37才の時書いた処女小説。初めてにして「すばる文学賞」を受賞したという作品です。 彼女自身がイギリス人と結婚したということで、小説もイギリス人の夫のもとで、老いを感じ始めた妻が起こす情事について描かれています。読み出したとき、「山田詠美氏の直木賞受賞作『ソウルミュージック・ラバーズオンリー』に良く似たシチュエーションだなぁ」と思いました。山田氏が森瑤子氏の影響を受けているということなのでしょうか? 森氏の作品は、単なる情事ということではなく、女性が女としての絶頂期を過ぎたときに感じる焦り、性への欲望、守らねばならない日常というしがらみ‥そんなものが切々と迫ってきます。 30代後半から40代の既婚女性に読んでいただけるといい本と思います。
●心霊アプリ 心霊写真が撮影できるというスマートフォンのアプリで 冗談混じりにいろいろな人の写真を撮っていく話。 悪い筋書きではないが、ベタすぎて展開が読めてしまうのが残念。
●来世不動産 人生を終えた男が来世はどんな生き物として過ごすかを不動産屋に紹介してもらう話。 今回一番のヒット。ネタは単純だが役者のノリと雰囲気で惹きつけられる。
●蛇口 身近な人に命の危険が訪れると、不思議な蛇口が見えるようになる男の話。 先の展開は読めるし、登場人物に魅力はないし、 蛇口が見える設定がほとんど活きていないストーリー。かなりイマイチ。
●相席の恋人 喫茶店で相席してきた老人に「恋人だ」と打ち明けられる女性の話。 そもそも喫茶店で相席を頼まれる、という設定にかなり無理があるし、 凝った設定にした割に何も面白くないシナリオ、 主人公と違って観ている側はそれほどスッキリしない結末。
●ヘイトウイルス 他人への憎しみや暴力がウイルスによるものだという世界観の話。 設定自体は悪くないが、気を持たせすぎる役者の演技と あまりにもつまりないオチが厳しい。
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