お芙美さんは生前も現在も、いわゆる芸術至上主義 的な人たちに軽く扱われ、 映画や舞台でダイジェストに描かれたこの作品も、 勝手に、女の泣き笑い立身伝と受け取られています。
ちゃんと読めば分かる通り、 この本には映画や舞台版には欠けている、 あふれるポエジーとユーモアがあります。
そして、一見デタラメに出来事を羅列している ように思えて、最後まで破綻しない。 お芙美さんは、バランスを取るバーも何も 持たないで、見よう見まねでプロでも難かしい綱渡りを 成功させた、とんでもない人です。
そこが、基本、大学の同人誌の派閥で 構成されていた、当時の文壇には、生意気に映ったのでしょう。
死後すぐに出た「文藝」別冊の追悼文は、 お芙美さんを、追悼号なのにけなすような内容が、 多かったのです。
ぼくら素人にはそんなこと関係ないです。 お芙美さんの、ワンアンドオンリーな シビアでのほほん、とした世界に浸りましょう!!
芥川龍之介などの小説は、文庫本で読むことが一般的ですが、この商品は音響効果付きの朗読CDなので、作品を耳で聞くことになります。
『蜘蛛の糸』など、話の展開をあらかた知っている作品の場合、活字を目で追う作業よりも耳から得られる情報で味わう方が気分的に楽ですし、目を閉じて情景を思い浮かべることも出来ます。
『トロッコ』ではカラスの鳴き声もちゃんと入っていて、自分がその場に立ち会っているかのような感覚を抱くことが可能になりますよ。
気難しい主人公の表情が面白い。高峰秀子が熱演しているのだが、いつも、不平不満を言いたげな、ふくれっ面である。それもそのはず、大変貧乏をしてしまい、おまけに、男運も悪いときているのだから、仕方ないだろう。でも、最終的には、大成をなしとげ、貧乏から抜け出ることが出来、母親にも孝行できたのだから、良かったのではないだろうか・・・。近年、森光子主演で、お芝居にもなっているようだし、また、チャンスがあったら、観てみたいと思う。
夫婦間でいざこざがあって、それが解決したりしなかったりするというのが成瀬映画に多いストーリーラインだが、これもそういう一本。 原節子が小津映画とはちょっと違っていたのでビックリしました。声がちょっと高く、若々しい。 夫婦の下に転がり込んでくるのが、夫(上原謙)の姪・里子(島崎雪子)。 で、この二人の関係がちょっと艶っぽくみえる。これは脚本、演出、カメラワークの巧みさからくるが、成瀬映画はこういう艶っぽさが随所に見え隠れするので要注意。地味で倦怠でというイメージだけではない。 二人の住む長屋が朝を迎えるシーン、小津映画みたいな(晩春か)カット、音楽や演者のアンサンブルの巧みさなどを充分味わって欲しい。97分だが、もっと長い、ぎっしりした映画を観たという感じを受けると思います。
日常の惰性の現実から逃れるようにゆき子はタイピストとして仏印にわたる。そこで出会った富岡。富岡もまた漂流者である。幻のような占領下の仏印で、二人は結ばれる。日本占領下のサイゴンやダラットはオーウェルやモームが描いた植民地とどこか共通性を持つ。ここでの三角関係は断片的な記憶としてあとで描かれていく。配線によってそれぞれ日本に戻った二人。帰ってきた二人にはもはや希望はない。ゆき子は富岡を求めるのだが、富岡はもはや仏印の富岡ではない。ふたりは傷つけあう。ゆき子の死によって話は突然終わる。まもなく突然生涯を閉じる林芙美子の思いがだぶってくる。ここには放浪記や北岸部隊の明るさはもうない。未来は見えずあるのは過去。行き先はどこにも見いだせない。
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