日本昔話や西洋の童話、ギリシア神話などに材を取って、倉橋由美子印のエッセンス(毒、ブラックユーモア、エロスetc.)がたっぷり詰め込まれた創作童話集。救いのない結末や内面感情が一切排除された童話というのは、読むほどに研ぎ澄まされたシャープさがあることを知る。病みつきになる中毒性あり。題名にある通り、無機質さを通り越して崇高なニヒリズムに到達している残酷さや、「大人のための」に含まれた妖艶な部分に笑みをふくませながら、潔い心地よさみたいなものが感じられる。後味が悪い話ばかりだけれども、口ざわりは良いのだ。もう倉橋由美子の新しい残酷童話が読めないというのはとても哀しい。ご冥福を祈る。
パルタイ(=共産党)員である「あなた」は,入党希望者である「わたし」に対して,できるだけ克明に過去を拾い上げて,入党する動機(必然性)を明らかにするよう求める。これに対して,「わたし」は,「わたしはパルタイを選び,パルタイによってわたしの自由を縛ろうと決意した。ここにはなんの理由づけもなく,なんらかの因果関係がわたしの決意をみちびきだしたのでもない。」(12頁)と反論する。 確かに,歴史的必然性を大上段に掲げるマルクス主義に対する,個人の主体的な選択こそ重視されるべきであるとの実存主義サイドからの異議申し立て,という図式的なテーマが鼻につく。 しかし,ここで描かれた「わたし」の心の動きは,ある組織に身を投じ,あるいはそこから離脱しようとするときの青年の決意という意味では,おそらく,普遍的なものなのではなかろうか? 本作が発表された1960年から何十年も経っているにもかかわらず,ある種の新鮮さは失われていないように思われる。24頁と短いので,若い人には是非一読してもらいたい作品である。
わたしにとって金字塔的作品です。
「聖少女」では、未紀という少女だけが名前を持っている。 倉橋由美子の小説で特徴的なのは主な登場人物が記号で呼ばれることだ。 一人称で語る「ぼく」はKという記号を持っている。 Kの姉はL、未紀の女友達はM、「作家」の夫はSと顕されている。
もちろん、これは名前の頭文字ではなくてその人格を象徴的にあらわして分類する、識別子です。 選民と賤民の識別子、象牙細工と粘土細工のちがい、とるに足るものかそうでないのか。 カフカにもありましたよね、というかカフカの実験を引き継いでいる。 どこをどうみても粘土細工そのものだった十代の私は、 賤民が木陰にこっそりと隠れて貴族の雅な世界をのぞき見るような、心地よいマゾヒスティックを感じていました。
解説の桜庭一樹によれば、未紀は桜庭一樹(念のため・・・女性です)の母親と同世代で、今や65歳になっているのだという。 いつの時代でも、若い人たちは他の世代を人間として認めない。 自分の世代だけがカラフルに彩られて、そこからはみ出た人間はユラユラと揺らめくのっぺらぼうな濃淡の影として存在しているだけなのですが、 その中に「聖少女」の未紀も静かに紛れ込んでいるのだと想像すると、心強い気持ちに満たされました。
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