思えば大学生の時にシネラマの画面のロードショウを観てから34年ほどにもなります。その後20年ほどはSF物でこの映画の影響を受けなかった映画は皆無と言ってもいいですね。で、音楽ですが、両シュトラウスがあまりにも有名になったので、陰に隠れた感があるジョルジュ・リゲティの音楽。この音楽も、その使われ方も実に素晴らしかった。これで「現代音楽」を当たり前に聞けるようになったといっても過言じゃありません、勿論個人的なことではありますが。音楽担当になり損ねたアレックス・ノースさんの音楽も悪くはないけれど、リゲティの前ではちょっとつらい。それぐらい見事に嵌まっていました。両シュトラウス以外の音楽に是非耳をそばだててください。 まだ字数があるようなので・・・初めて観たとき、シネラマの画面が5分以上だったと思う、真っ暗だったのです。ハハーン、始めに暗闇があった、てな風に始まる聖書から来ているんだろうなあ、なんて自分としては妙に鷹揚に待てたのですが、そうでない観客もいて騒ぎ出した。映写室にむかって怒鳴りだしたんです。興ざめしたのを少し覚えています。隣で一緒に観たクリスチャンの親父がどう思ったか、話し合った記憶はありません。その後何度も見る機会を持ちましたが、そのいずれの機会でも数分間の暗闇はありませんで、ひょっとすると初めて観た時のが単なる映写上のミスだったのかもしれない、と思ったこともあります。真相を確かめたことはありません。 当時はサントラでは厭で、中の曲をE・ブール指揮、南西ドイツ放送交響楽団の「LP」、ARGOの輸入盤を1枚買い求めたら4千数百円取られたので仰天したというのも思い出です。
あの時、シネラマの大画面に映し出された映像には驚くべきパワーがあった…。40年の歳月を経て、世紀が変わった今もなお、これほどの輝きを保った映画がかつてあっただろうか。登場する宇宙船のプロップもインテリアのセットも完璧。 モニターに映し出されるグラフィックはいずれ現れるであろうCGを想定した手書きのアニメーションだった。エアリーズ号の内部で放映されているテレビはハイビジョンのごとき横長画面。宇宙空間での無重力表現。白と黒の深淵の宇宙と色彩あふれるスターゲート。すべてが本物の迫力で迫ってくる。当時はどうやって撮影されたかが理解できない別世界の映像だった。CG世代にはピンとこないかも知れないが、おもちゃのようなSF映画が氾濫していた時代に突如現れた突然変異の映像だった。しかも知恵と工夫で光学的に作り上げた映像なのだ。400万年の時を一気に飛び越す編集にも度肝を抜かれる。テーマは深い。生物の進化を神の領域にまで踏み込んで描いたとてつもない志(こころざし)があった。キューブリックだけでなく、映画に関わった全てのスタッフに拍手喝采を送ろう!才能溢れる人達の手による芸術作品だ。古い映画だけに米国版では一部に色ムラも見受けられた。しかしこの映像をHDで堪能出来るだけで幸せを感じられるはず…。ちなみに画質は決して悪くはない!宇宙船のディテールはDVDのそれを遥かに凌いでいるし、特撮の粗(あら)がわかってしまう場面もある。間違いなく「買い」の1枚。
スタンリー・キューブリク監督が死亡し、現実問題としてこれ以上のSF映画というのはもう出て来ないのだろう。これまで何度も観たが、宇宙空間の描写は超絶の映像。あらゆるSF映画が作られスペースシャトルからの映像が頻繁にお茶の間のテレビから流れる状況でありながら、この映画を越えた驚きの「宇宙空間」映像には巡り会っていない。68年に作られた名作である。若者で最近の薄っぺらな映画に飽きた方は必見。どう評価するかはあなた次第。おもしろい映画ではない、がすごい映画ではある。DVD化された時点では期待を裏切る映像だったが、デジタルリマスター版でだいぶよくなった。
「2010年」より細かい所が良くわかって面白く読めた。特に、チェン号の登場には驚かされた。エウロパの生物に破壊されて全員死亡しちゃう所は、ちょっと可哀想かな・・・。それ以外は犠牲者もなく、大体映画と同じような展開だったな。木星を破壊する事が、映画じゃ素晴らしい事って表現されてたけど、本当に良かったのか疑問に思うが・・・。人類は地球以外に住める星が出来たとしても、その星もどうせ食いつぶしちまうんだろうから、ろくな事にはならないと思うが・・・。まあ、SF小説だからそこまで言ったらみもふたもなくなっちゃうが。しかし、実際太陽が二つになったら、どんな現象が起こるだろうな?きっとすごい事になるんだろうな。小さくても太陽なんだから、重力はあるわけだから、惑星達の自転・公転にもかなりの影響はでるはずだが、そこら辺は説明されてなかったな・・・少し気になった。それでも、「2001年宇宙の旅」よりわかりやすくて、ストーリー性もこっちの方が上かなと思う。
この作品の「凄さ」は、ほかのいろんな方がいろんな視点から述べておられるので、重複をさけたいと思います。そのほとんどに、私も同意しますから。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』は、SF映画としてだけでなく、すべてのジャンルと時代を超えた、問答無用の超傑作であると、私も断言いたします。
重複はさけたい。とはいえ、その「凄さ」のうち以下の一点だけは、まずは私も語っておきたい。それは。
この映画では、場面ごとやストーリーの流れ、全体を通してのメッセージ、等々に対して、いちおう正解らしき「正統的」解釈はあるとはいえ、恐らくはそれにもかかわらず、見た人の数だけオルタナティブな解釈も成り立ちうる、という点です。なぜ、そんなことができたか?クラークの小説を、ある意味でキューブリックの映画が超えているのは、言葉がなくても映像(と音)で鑑賞者の五感と直観に直接訴えられる、という映画の利点を最大限活かした手法の徹底、それが最大要因であった、と思っています。それによって、クラークの小説(原作?)によってすら、枠づけられない感得と解釈の広がりや深まりがうまれた、のではないでしょうか。
映画と小説とは、どちらかが主でどちらかが従という関係でなく、相互の影響下しかしそれぞれ独立した別のものとして、創作された。だから、映画のほうを鑑賞(解釈)する行為を中心にしたばあい、小説は「正解」を伝えるものではなく、あくまで映画鑑賞のための参考書以上には出ない、そうした関係だ、というふうに思います。数あるレビューのなか、クラークの小説をひき合いに出されている方は多いながら、必ずしもそれに縛られてはいない方もまた多い、ということが、それを裏づけているのではないでしょうか。
そうしてそれぞれが、クラークの小説を「正統的解釈」として参考にしながらも、この映画をみずからの解釈において語る自由を、獲得できた。われわれにそれを可能ならしめた、そこが本作品の「凄さ」であり、名作と呼ばれるひとつのゆえんだったのだ、といえるでしょう。
この凄さを、以上のように踏まえたうえで、では、おまえの解釈は?ということに以下、なるわけでして。 ただしキューブリックの手法は、きわめて感覚中心的なので、私もみずからの感覚によってのみ語ることを、お許しいただきたい。
私のなかで、もっとも印象的なシーンのひとつは、同僚をスーパーコンピュータHALに殺され怒り心頭のボウマン船長が、HALの心臓部にはいり、ディスクを端からぜんぶ抜きとって、HALを無力化していくシーン。だれもコメントされていないが、このシーンにひじょうにエロティックな感覚をおぼえたのは、私だけでしょうか?知識をはぎとられ、裸の子どものように無防備に、そしてだんだん意識朦朧としていく、HAL。ボウマンも、暴力的にHALを「折檻」しながら、それによって次第に怒りの感情をおさめてゆき、ついにHALの「幼児期」の思い出の歌をきく。その「二人」の様子に、SEXの暗示を受けたのは、私だけなのでしょうか?
いさかいの果てレイプまがいの性交渉をへて、互いの生と死すべてをさらけ出すことによる、奇妙な一体感。 続いて訪れる、まるでドラッグをやったかのような、エクスタシーの奔流。 ディスカバリー号は精子の形。とはよく言われる。さらに私には、それが骸骨のようにも見える。 冷え冷えとした洋室で、ボウマンは死の床につく。
これらが象徴するように、物語後半の木星への旅の行為モティーフは、SEXとドラッグ、エクスタシーあるいは死、そこからの再生ないし新生、なのではないでしょうか。人間は、ちがう何ものかと交接(SEX)し、そこで共にいったん死を迎えるが、再生・新生してゆく。
そのSEXの相手あるいは新生への媒介者、すなわち関係モティーフは、宇宙かもしれないし、コンピュータかもしれない。モノリスかもしれない。
いずれにせよこれらのモティーフすべてに、きわめて60年代的な刻印が押されている、と感じられます。 そしてそれらは、いまの時代に、どのような意味合いをもって見られ、聞かれるべきなのでしょう?
|