攻略本を片手に、何とかエンディングまでいけました! ただ、高校生を全員助けることができずベストではなかったようですが……
とりあえず操作に何がありすぎです。 作中唯一の武器が「猟銃」なのですが、これの有効範囲がわかりにくい! せめて画面に照準なりが表示されれば… あとは仕掛けの難易度ですね。 攻略本無しでのクリアは、相当感が冴えていないと難しいでしょう。 これは謎解きが好きな方でしたらやりごたえ、と感じるのかもしれませんね。
操作性こそゲームとしてどうなの? というレベルですが、光と闇のコントラストが演出する世界観は思いっきりストライクゾーンでした! 個々のキャラクターも味があってよかったです。
息を潜め、耳を澄ます…。 主人公(と観客)は全編これを続けることになる。 聞こえる音は、靴音・霧笛・鐘の音・壁を叩く音・市電の音・列車の音・自転車の軋む音…。 この映画、4回程度しか音楽はかからない。 会話は最低限、あとはモノローグのみ(そうせざる得ない状況だ)。 禁欲的な描写でアクションはほぼない。 だが退屈している暇は無い。 一瞬の油断も許されない綿密な作業。 静かで淡々と進む映画だが常に緊張感が途切れない。 見ていて(こっちが)疲れてしまうほど。 まったく無駄がない映画だ。
舞台はナチス占領下のフランス・リヨンのモンリュック監獄。 ナチス抵抗運動で捕らえられた青年が脱獄に挑む。 全編主人公の視点のみで語られる。 観客は主人公とともに少しづつ監獄の状況を知り、脱獄の準備から実行までを目撃することになる。
映画のほとんどが脱獄の準備などの描写に費やされる。(脱獄実行シーンは終盤の約20分弱 ← ここの静かなスリルもいい) 周到な準備やルートの確保(扉の破壊等)は手に汗握る。 何も無いところから少しずつ’脱獄’を組み立てていくスリル。非常に精密な描写だ。 さらに、何時部屋の中を看守に点検されるかという恐怖。 ばれたら銃殺という中、常に生命の危険を感じながら地道な作業を進める主人公。 何度も聞こえる看守の足音と、聞こえるたびに作業をとめて耳を澄ます主人公が印象的。
‘脱獄映画’には『大脱走』『第十七捕虜収容所』『アルカトラズからの脱出』などの多くの秀作があるが、脱獄そのものを丁寧に描いたという点でその頂点が本作だと思う。 また、息が詰まるようなテイストは密室映画的でもある。 寡黙な最小限の登場人物で構成された映画。 感情の発露を抑えた徹底的にドライなタッチも映画にあっている。 1956年公開作ということなのだが、古くなっていない。 豊かな娯楽性をもつ映画だ。
同封のリーフレットも詳細ですばらしい。ブレッソン監督の芸術性や宗教的な視点からの解説は非常に参考になった。 が、私にとってこの映画の第一印象は 「見事に禁欲的な‘娯楽’サスペンス」だ。 芸術性だけではなく十分娯楽映画としても楽しめる映画です。 未見の方、是非。
レオナルドの残した膨大な手記から、比較的、読んでわかりやすい部分を抜き出し、人生論、絵画論、科学論などに分類している。 その意味では、レオナルドがこの本のような順番や構成を意図してた訳でなく、訳者の杉浦が再編集した内容になっている。 それでも、”天才”とか”万能の人”と、やたらと祭り上げられてしまっている、レオナルドの本質に迫る、貴重な記録だ。 人生論や文学、というパートを読むと、特に同時代の他の思想家や作家より、飛び抜けた思想や文学素質があるとは思えない。 やはり、メインは絵画論。彼がどのような手法や思想で、モナリザなどの名作を描こうとしていたかが、よくわかる。 絵画に関しては、彼は、今から見れば、実にオーソドックスな考え方を持っていた。 対象をとにかくじっくりと見つめ、3次元の世界を、2次元のキャンバスに描くためにはどうしたらいいか、を考え尽くしていたことがよくわかる。 また、科学論では、レオナルドが、観察するということを通じて、驚くほど科学的な視点を持って、この世界を捉えていたことがわかる。
元々、伝記物またマフィアものが大好きなので手に取ったが、ストーリーが少し淡々としすぎている気がした。また、出だしでチャイニーズマフィアを評して、「あいつらに比べればマフィアなど子供に見える」ようなことを書いているが、内容からはその凄さがなかなか掴めなかった。しかし、1人の男の成りあがり物語として読めばそれなりに楽しめます。
Darは「土地」 furは「フール人(族)」を意味する。チャドとの国境に沿ったスーダン西部の地域で面積は493,180k'uでスーダン全土の2割近くを占める。1956年の独立以来、政権は少数派であるアラブ人の手にあったが定住するアフリカ人諸部族と遊牧アラブ人は対立しつつも共存を続けていた。しかし近年、対立は先鋭化しバシール将軍の支援を受けるアラブ民兵軍(ジャンジャニード)がアフリカ人の村落を攻撃し続け、多くの難民を隣国チャドへ送り込んでいる。このような攻撃の激化の背景には水飢饉による部族の移動、シャリーア(イスラム法)の強制などがあるが何よりも大きいのは南部に大量の埋蔵石油が発見されたことであった。ダルフールの様相は民族の大量虐殺(ジェノサイド)と見られ、バシール将軍は本書の出版後に国際司法裁判所の訴追を受けている。(本書の著者が訪れた時、10箇所ほどに分かれたチャドの難民キャンプの名簿には250万人の氏名が記録されていた。) 題名の示すように著者はダルフールの一部族(ザガワ)に属し、ザガワ語、アラビア語、英語の知識によってそこを訪れる欧米人記者の通訳となった。本書は著者の生い立ちや家族の回想に始まっているが主としては通訳として働いたここ3年ほどの経験が描かれる。彼はその仕事によってスーダン政府のお尋ね者となり、拘留され、拷問され、民兵の気まぐれひとつであの世へ旅立つ運命の淵に幾度となく立たされた。彼はまたその命知らずの行動の過程で幾多の惨状を目撃する。惨劇は女子供を容赦しないどころか、女子供こそが狂った兵士たちの目ざす獲物であった。惨状は取材にあたった剛毅な西洋人記者を嘔吐させ、涙にくれさせた。読者は人間が人間でなくなるのはなぜだろうかと後々まで考えないではいられないだろう。 本書が描くのはこのようにして多くは人類の愚行と蛮行である。しかしたとえアフリカの狭い一角からに過ぎないとしても、読者は、砂漠とはどういうものか、砂漠を旅するとはどういうことか、部族や家族を結ぶ人間的な絆はどのようなものか、さらにはまたラクダやロバなどの興味深い生態についても教えられる。著者の働きは一介の通訳としての働きではなかった。その献身が結局は彼の命を救い、やがてこのような書物となってわれわれに届けられた。本書に登場する英米のジャーナリストはいずれも名の知られた人たちである。彼らの支援がなければ本書は日の目をみなかっただろう。
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