余談から始めたい。 先日、あるラウンジで、ワンテーマ・カラオケと称し、角川映画のテーマ曲を次々と歌う内、南佳孝による今作の主題歌を入れた処、これって角川映画だったの?と皆に言われ、答えに窮してしまった。 だって、原作は片岡義男だよ、でも、今日では、角川映画が角川書店のメディア複合型ビジネスモデルであった事さえ知らない人たちが多いと思い、説明するのを止めた。 で、どんな映画だったの?と聞かれ、またまた答えに窮してしまった。 81年の公開時は学生だったが、青春映画としての浅野温子と古尾谷雅人の若者カップルの物語よりも、山崎努や原田芳雄ら中年男たちのぐだぐだとした生き様の方が妙に印象に残っていたからだ。 とは言え、21歳のガキには、不良中年たちの情念など分かるハズもなく、初見時は、作品に流れる微熱と倦怠なムードに酔っていた感があった。 あれから30年、すっかり彼らの年齢に追いついてしまった今でなら、当時とは違った思いを抱くんじゃないかと思い、購入、早速鑑賞した。
本作の山崎努は、アパレル関係の会社役員だが、もう長い間出社していない。妻と離婚、養育権を巡り、調停中のようだ。 更に、仕事上の関係で知り合った原田芳雄と浅野妙子の夫婦と三角関係に陥り、どちらが父親か分からない子供の養育費を払い続けながら、今も三人で奇妙な同棲生活を送っている。 そんな山崎が愛車ムスタングで拾った女が浅野温子。親子ほどの年の差があるふたりだったが、アンニュイな中にも互いに惹かれる関係となっていく、、、。 収まり返る事が出来ない、分別を持って生きていく事が出来ない、みっともなくもぐだぐだとして、拘り、つっぱりながら人生を始めようとしない、愛のさすらいびとのような男の心情。 如何にも、あの時代の中年の心情吐露映画みたいな感覚で、さすがは、監督藤田敏八、脚本内田栄一作と認識出来、改めて面白く観れたが、どこかで甘いと思えてしまうのは、自分が分別ついたツマラナイ中年になってしまったとの事なのか。 それとも、今は、こんな“夢”を見る事すら出来ない時代になってしまったとの事なのか。
浅野温子は当時20歳。今、見直しても、実に凛々しく魅力的だ。 それに、その脱ぎっぷりと愛欲シーンでの艶やかな色気っぷり、惚れ惚れする。
それにしても、藤田敏八、内田栄一を始め、出演者の原田芳雄も、伊丹十三も、室田日出男も、古尾谷雅人までもが亡くなっている現実。 この30年間の歴史の変遷に、ちょっと慄然としてしまった。
日常の生活のなかからネタを吟味し、タイトルも含めてどのように小説に昇華していくのかを自らがエッセイの形で明かした好著。筆者の創作作法が十分に楽しめる。
近作「恋愛は小説か」と併読すると、かなりはっきりとその輪郭がつかめる。特に異色の「コーヒーに向けてまっ逆さま」は、片岡と田中小実昌との淡くも濃い「師弟関係」を描いたもので、伊集院と阿佐田の「いねむり先生」と匹敵するほどの読み応え。
エッセイといえどきちんと編集方針を持って、読み込んだ上で1冊の単行本に仕上げた編集者の力量と努力に拍手!
この本が新装版として売られることになったとしたら、どこに置いて売るべきだろう? と考えた。つまり、どんな人にオススメしたいか? ということであり、もっと言えば この本の読後感には、どんな人なら満足するだろうか? ということだ。 新幹線に乗り込む前の人が立ち寄る駅の売店だろうか? だったら、重すぎたり考えさせ られる本は適さない。この本なら、到着後の心理に影響も出ず、いいかもしれない。 あるいは心の友といえる一冊を探す人が行くような、フロアごとに違うジャンルの書籍を 揃える大型書店だろうか? もちろん、心の一冊にする人は少なからずいるはずだ、本の 趣味は千差万別なのだし。コンビニの雑誌陳列棚の手前にある、占い本の隣あたりは どうだろう? ちょうど松下幸之助の人生訓の隣あたりか。読みやすさから言えば本作は 流し読みが許される内容であり、観たいテレビ番組まで持て余した一時間で読み切れる。 読む人を選ばないかわりに、読後感に手ごたえはない。いや、何が起こるのだろう? と 期待させられ続けた挙句いきなり終わる、と言ったほうがいいかもしれない。 しかし、描き出したい世界観はとてもはっきりしている。それは他人から見たら理解でき ない意地やこだわりを持って生きている、若者の世界である。本作を読んだ人が、意味が ない、何が言いたかったのかわからない、という感想を持つのは、ある意味で当然のこと なのだ。この本はきっとそれでいいのだ。
この作品はバイク乗りにとって小説とDVDは聖書のようなもんですね 買ってよかったです。
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