『女優霊』、『リング』、『新生・トイレの花子さん』といったホラー映画の脚本を手がけてきた高橋洋の 長編初監督作ということで、本格的な恐怖を期待して観ると肩透かしを喰らうだろう。 これはむしろ、過去の高橋洋脚本作の中では『発狂する唇』のテイストに近く、脱力ギャグも狂気もアクションも 何でもありの幕の内弁当映画なのだ。
監督本人は60年代にドイツで作られていたマブゼ映画と呼ばれるチープな犯罪映画の再生を狙っていたようで、 悪役となる俎渡海(ソドム)一味のくだらない犯罪の数々が映画の主軸かも。 かつて冤罪で処刑された美しい腰元が輪廻転生で現代に生まれ変わり、これまた悪党として蘇えったかつての 主の犯罪を追うという、文字にして説明するのが難しいような(笑)ハチャメチャなドラマが展開。
俎渡海を倒そうとする非情な女捜査官テレーズを、『3年B組金八先生』や『水の中の八月』で強い印象を残した 小嶺麗奈が演じているが、この映画では高橋監督の要求に応えて過去の出演作の印象を一新するような強烈な芝居を見せている。 中でも容疑者の男に自白させるため、片方のキン●マを蹴りつぶすシーンが凄い! 列車の脱線転覆やB29の飛行シーンは、あからさまにミニチュアを使っていますという画面だし、アジトの安っぽさなど 失笑する箇所も多いが、それらをひっくるめて馬鹿馬鹿しさを楽しめる人向けのリトマス試験紙みたいな映画。
まだビデオテープだったころにレンタルで観ました。当時10代。とっかかりは当然ながら興味本位でしたが、痛烈なしっぺ返しを食らいました。映画における残酷表現の極北と言っていいでしょう。当時はもう2度と観たくないとも思いました。
作品そのものの分析は、さまざまなコラムで論じられている通りだと思います。ただ、10数年以上たった今、ふと、「また観てみるべきか」と振り返る時があります。そして、何故かこのレビューに書かれた一人ひとりの感じ方をつぶさに読み込む自分がいます。
ひと歳とって、世の中のいろんなことを見聞きしたせいでしょうか。現時点では、観ようと思いつつも再び手を伸ばすに至っていません。とはいえ、生活上のちょっとした起伏を引き金に「何かを確かめてみたい」と期待させてしまう引力が、この作品に潜んでいるような気がします。
自分は一体、何で「映画」を観るのか。観たら確実に嫌な思いをするこの映画に、何を求めているのか。営みの根源的な部分につけ込んでくる作品です。
マルキ・ド・サド(1740-1814)の『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』の抄訳と『悲惨物語』及び附録の三編。
サド小説の特徴は、人間性・美徳・宗教的道徳的なるものへの徹底的な軽侮と、異常性・悪徳・涜神への傾倒だ。神や人間性に対する信念を無神論で以て嘲笑し辱める。
「悪徳こそ、・・・、いちばん甘美な逸楽の源泉である・・・。」(「ソドム百二十日」)
「私はね、美徳を失墜せしめてやりたいのだ・・・。」(「悲惨物語」)
登場する男たちは、他者を己の快楽の手段として物化する。彼らにとって、女は男の欲望の赴くままに性的快楽を搾り取られる奴隷でしかなく、独立した人格とは看做さない。
同時に彼らは、快楽以外の、人間的な感情や他者の人格に関わる事柄に対して、一貫して無感動だ。彼らの内面には、他者に対する人間的な共感や優しさというものについての感覚など皆無であり、目の前の奴隷に残酷の限りを尽くす。「人間性(human nature)」などと云うものは道徳家や宗教家が捏造した虚構だとして唾を吐きつけ、「美徳」だの「良心」だのと云った因習的な観念による縛めに対して傲然と反抗する。彼らは、哀れな女たちとは対照的に、一種の英雄として描かれている。
ところで、サドの小説に限らず、男が己の倒錯的性愛に耽るべく他者の人格を支配し道具化する手段というのは、決まってカネと権力と暴力だ。それによって創出される性的饗宴の自閉空間は、確かにおぞましいが、単調だ。どんな異常性愛も、言葉にしてしまえば、それまで。
ソドムの市。見たくても廃盤だった。中古も高くて手が出なかった。それがHDニューマスター版として手にはいるなんて最高!旧版の単品を持ってないので比べる事が出来ないがこちらのニューマスター版は画質がかなり良いです。しかもあのアポロンと豚小屋の抱き合わせでこの価格はあり得ないくらい安い。
グロいし目を背けるシーンもあるけど、やはり見ておかなきゃいけない映画だと思う。
中原昌也氏が70年代のゴア系や胡散臭系の主にスプラッター映画についてあの独特の文体で語りつくす異色の映画エッセイです。非常に濃い内容ですが、氏のファンは必読です。
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