主人公に感情移入させてくれないレムの作品群は、物語を読むこととは別の次元を読者に要求する。『GOLEM 14』においてはるか人間の知能を超えてしまった人工知能は人間の知能とは別次元に行き、その知性に人間は触れることはできない。卑近なもので例えれば、高速で動く物体からは低速のものが止まったように見えるが低速のものにとっては高速の物体は細部まで認識することが難しい。そのような認識の不可知性をレムは様々な作品の中で示してきた。IQが180あったというレムにとってみても宇宙や物理の世界は認識できないことだらけであり、認識しても認識しても確実な知識が得られないことに突き当たる科学者レムにとって、想像の世界において描くべきことは、不可知その一点に尽きるのである。とすれば、人間の理性を超えた理性としての『ソラリス』は描かれるべくして描かれた存在であり、そこに挑んでは跳ね返される我々もまたレムを含めた知性の限界の想像として当然描かれる。想像力の限界を超える創造性を指向しないものは、恋愛にテーマを見、我々自身にテーマを見ることしかできない。だから、新訳において追加された惑星の、ストーリー上不要とも思える長い描写は、『ソラリス』の小説世界として必然であり、あれこそが知性としてのそして我々が認識できない存在としての『ソラリス』を、最も想像力を持って描いた部分である。だからこの描写を入れてこそ、この小説の訳として完成といえるのである。その意味で旧訳は単なるSF小説であって、新訳こそがレムの小説だといえるのだ。だが、もう一つ落とせない視点は、このような描写がレムの頭の中に繰り返し現れたことを想像させるという点である。というのも最後の長編『fiasko』において、その冒頭部分の『バーナムの森』が作者によってイメージされ書かれた後、その後のストーリーがなかなかできあがらなかったという事実がある。『バーナムの森』と『ソラリス』の描写はイメージとしてよく似ている。つまり不可知であり、十分に科学と経験によって危険を予想しているにもかかわらず、その当事者の人間を飲み込む。故に『バーナムの森』は『ソラリス』の後日譚であるとも言え、そこで作者の中のストーリーが止まってしまったことも十分に想像できるのだ。…続きは『fiasko』のレビューにて。
以前、ソ連版の「惑星ソラリス」を見て、ラストの何ともいいようのない畏ろしさが強烈な印象として長く心に残っていました。自分のまわりのものがすべて脳への精神波(?)による影響で、故郷と思ったところは実は全く別の惑星上のことだったというのが、自分の足元を根底から揺るがすようでものすごく怖かったのです。 ハリウッド版で新たに公開されたので、以前の畏怖の念がどう表現されているか興味があって劇場へ見にいきました。 全編、自分が殺したも同然の妻への思慕、後悔、そして変わらぬ愛を軸に展開され、恐ろしさはほとんどなく、美しく、ゆったりとした時間がつむぎだされていて、少し驚きました。なるほど、このように解釈したのかと。死んだはずの愛すべき者の存在を受け入れることは自分の正気との闘いでもあり、乗組員がみな追い詰められるのは道理です。理性が強ければ強いほど、逃げる道を選ぶはず。でもケルヴィンは最終的には愛のほうが勝り、しかも最後には気が狂うのではなく真正面から彼女を受け入れていく。その愛の強さが、満たされることのなかったソラリスという惑星自身の想いをも受け入れ、惑星自身を変えていくのではないかとも思えました。 見終えたときの気持ちは、何となくぞっとした前作と違い、ほっとするというか、前作のような強烈な印象はなかったのですが、映画中のしとしと雨のようにじんわりと心にしみました。
富田氏の音楽作りは、原曲の古典音楽を、いかに聞き手のイメージを 膨らませる色彩豊かな音色の紡ぎ物に仕立て上げるか、にあると思える。
従って、変幻自在な音の集合体となってあらたに構築されなおした サウンドコラージュとも言うべき彼の音楽は、原曲から大きく離れて、 初期の代表作「月の光」から最近のスペースサウンドまで、リズム、 ユーモア、幻想、ファンタジーなどさまざまな趣向を凝らした音の 空想旅行に誘ってくれる。
シンセサイザー音楽がジャンルとしてレコード店のコーナーとなった あの頃からもう30年以上経とうとしている。あのころのアーティスト たちで今もまだCD店に置かれているのはほんのわずか。
彼が「生き残っている」のは、無限に「在庫」のあるオリジナルを編曲して 彼が新たに創造した「トミタヴァージョン」が、夢とロマンにあふれた、人間の 体温を感じさせる音楽になっているからだと思う。
このCDでは、「ソラリスの海」に特に感動する。
『禁断の惑星』『2001年宇宙の旅』『ブレードランナー』等に代表されるように、SF映画の中には、時々、極めて深遠で哲学的な要素にまで踏み込もうとする意欲的な作品が現れるが、この『惑星ソラリス』もそんな映画の一つだろう。 理性を持った有機体である「海」に覆われた惑星ソラリスでは、その「海」が人間の潜在意識を物理的に実体化してしまう。そんな惑星ソラリスで、調査に来た主人公の心理学者クリスは、十年前に自殺した妻の幻影と出会う。人間ではないとわかっていても、妻とうりふたつの幻影を前に、クリスは己の科学者としての使命と、人間としての良心との狭間で苦悩する。 科学者の使命とは何か、道徳とは何か、良心とは何か、そしてそもそも人間とは何か、様々な問いを残したまま、この映画は恐ろしいほど静かに進行していく。そして、そのテーマソングと共に、どこか荘厳な雰囲気さえも感じさせるこの映画独特の空気感は、同じくSF映画の傑作とされる、キューブリックの『2001年宇宙の旅』と比べても勝るとも劣らない。 SF映画の古典的名作として、絶対に見るべき映画だろう。
「未知の知的生命体を理解するとはどういうことか」をテーマとしたSFの古典。 一般のSF作品では地球外生命体が登場する場合、その生命体から 何らかのメッセージを受け取りうることが暗黙の前提となっている。 しかし本書ではその暗黙の前提が成り立たない世界を描くことで、 擬人化(=人間中心主義)の無根拠性をグロテスクに暴き出している。 かつての恋人のレプリカ(=擬人化のメタファ)を通じた男女間の理解の断絶、 更には自己自身の理解不能性が二重写しとなって物語に厚みを与えている。 根源的な理解不能性を前にした時、 ケルビンのように健全な自らの世界に引き返すのか、 スナウトのようにあくまで理解を目指しそこに踏みとどまるのか、 人類がその判断を迫られる日がいつか来るのだろうか。
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