子供の頃の記憶。
思い出すこと、覚えていることはいくつかあるが、その多くは
長い時間のフィルターを通して加工されている。
食物に対するのと同じように、鮮度を保つにはある程度の加工
処理は止むをえない。風化された記憶とは、つまりはそういう
ことなのである。
あの頃。どう感じ何を考えてきたか。
子供の延長線上に大人はいて、つながっている。にもかかわら
ず、感情は霞がかった地平線の彼方にあり届きそうにない。
安永知澄は、この近くて遠い時代の記憶にアクセスできる稀有
な才能の持ち主である。そして、その感受性で捉えた感触を紙
の上に表現できる。
彼女の手によって眼前に現れる、風化にさらされる前の感情が
たゆたう世界。そこでは、美しい田舎の風景も抑圧の対象とな
り、子供社会にも厳しい世間やルールがある。隣の芝生は青く
見える。
大人の世界のミニチュアではなく、より先鋭化された、生々し
く残酷なる子供時代。
あの頃のアルバムや日記だけではわからない、分析や構成の
フィルターを通して浮かび上がった記憶のパッケージ。
タイムスリップは少し胸が痛む。
めちゃくちゃ未完成で、言いたいことがまとまっていない感じすらあるのに、なぜか完成された感じをそれなりに出しているのはすごい。この人のいいところは、百パーセント自分に向けて描かれているということ。誰にもこびず、ただ淡々と自分の中の風景を絵にしているだけという感じがする。メッセージもその中に含まれているのだろうけれど、我々の現実がそうであるように、そう理路整然としたものでもないし、百パーセントの肯定でも絶望でもない、それはもっと曖昧模糊としたものである。それを素直に吐き出せるというのは素晴らしい。ある意味、劇的な粉飾を行ったり、象徴的な意味合いと曲ん的メッセージが色濃くなったりせず、独特の調子を伸ばしていって欲しい。
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