R・シュタイナーは、外なる世界に向かって存在の意味を探求する道をアポロン的秘儀、自分の内面への道を無意識の世界の奥底までにまで降りていこうとするのをディオニュソス的秘儀と区別した。M・ブラバッキーの『シークレット・ドクトリン』やR・シュタイナーの『アカシヤ年代記』などは前者の秘儀を解説するものであり、釈尊の教法は後者の秘儀を解説する。
釈尊は人間意識の成長を、「欲界(粗定、細定、欲界定、未到定)」→「有色界(初禅、第二禅、第三禅、第四禅)」→「無色界(空無辺処定、識無辺処定、無処有処定、悲想非非想処定)」→「仏界(滅尽定)」と示した。さらに、釈尊は人間世界を凡夫と聖者に分け、凡夫が聖者になる方法「四念処観」(ヴィパッサナー瞑想)を独創した。四念処観は、「身念処観(身体と呼吸体を瞑想)」→「受念処観(感情を瞑想)」→「心念処観(心を瞑想)」→「法念処観(四聖諦などの法を瞑想)」と進む。 神智学の言葉と釈尊の言葉と比較すると、身体⇔物質界、呼吸体⇔エーテル体、感情(欲界と有色界)⇔アストラル体、心(無色界)⇔メンタル体となりそうである。ただし、釈尊の「法」は「涅槃界(諸行無常、諸法無我)」なので、「自我」を意味する神智学の「コーザル体」との対応は無いと思われる。
こうした言葉を前提にすると、本書の“アパーチャ”は有色界と無色界の境界のようである。さらに、有色界とは言葉で表現できる世界のことだから、本書の内容は有色界で有の極限を追求しているように思われる。シルバー・バーチなどに代表される“スピリチュアル”の霊訓も同様な立場であるが、これには注意が必要である。なぜなら、有の極限を亀とした「ゼノンのパラドクス」に陥る可能性を否定できないからである。“アパーチャ”を超えて、無色界に入ってもアーラーラ・カーラマ仙の「無所有処定」やウッダカ・ラーマプッタ仙の「悲想非非想処定」のように、無の極限を亀とした「ゼノンのパラドクス」に陥る危険性が待っている。体脱体験は興味深いが注意深さが要求されそうである。
世界一おいしいコーラと聞いて購入したが、人それぞれ好みがあるのでしょう。まずくは無いがそれほどとは感じなかった。普通じゃないの?
3D効果抜群で毎晩リピートするぐらいはまっていますが、特典も無く3曲だけで約20分のブルーレイ、ちょっと残念です。3Dの音楽物に関しては、コンサートを含め本当に数が少ないですので貴重な作品です。もっと増えていってほしいですね。
期待どおりの商品でした。機会がありましたらまたお願い致します。
BGMが良い、弾幕が美しい、キャラが魅力的、どれも勿論「東方」です。が、それ以上に「東方」「幻想郷」を知りたければこれしかない。 神主自身が「設定作りの際のネタ帳的存在」と語る香霖堂には、作品の枠を超えた「幻想郷」の魅力がギュッと詰まっています。 他の公式ではちょっと味わえない柔らかい雰囲気の日常、一見益体もない電波のようで、よくよく読んでみると妙にナルホド、と思ってしまう数々の蘊蓄、 その随所に散りばめられた純和風の美学、そして勿論「香霖堂」「森近霖之助」という一風変わったファクターの魅力。 ゲームでは味わえない、「東方」の面白さがここにはあります。是非お試しあれ。
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