ロシア語の通訳として名を馳せ、その後手練のエッセイストとして評価の高かった米原さんは、 突然のように逝ってしまったが、 その米原さんが残してくれた、半ば自伝で、小説のように読めるエッセー集。
米原さんは、日本共産党党員であったお父さんの仕事の関係で、 プラハのソビエト学校に、日本で言えば、小学校の終わりから中学ぐらいの5、6年通っていたらしい。 そこで身につけたロシア語が生涯の仕事にもなったわけだが、 このエッセーは、当時プラハの学校でクラスメートだった友人3人の話を別々にまとめたものである。
当時の思い出(と呼ぶにはあまりに複雑だったり辛かったりするのだが)と、 その後著者が友人たちと再会を果たす様子などが生き生きと描かれて、ほんとうに小説のようだ。 昔NHKでやっていた『世界こころの旅』のようでもあった。 当時のプラハといえばソ連共産党の主導のもと、国際共産主義の連携の拠点のようになっていたようで、 学校の子どもたちはそうした共産党がらみの親たちの子弟である。 出身国もいろいろで、 3人の友人はギリシア人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、そしてユーゴ人のヤスミンカ。 ひとくちに共産主義と言っても国家によっていろいろで、 たとえばユーゴとソ連、中共とソ連、日本共産党とソ連共産党の対立やらある。 時代から言ってもプラハの春やら、その後には東欧及びソ連自体の崩壊があって、 その中を生きて来て、また後半は通訳として関わった米原さんはまさに激動の時代の証人である。
とかく我々にとっての「世界」とは欧米であり、ヨーロッパと言っても西側止まりであるところへ、 こうした生活と生きた感情を伴った記録はとても貴重だと思う。 もちろん語り部としての能力もすばらしい。
その米原さんもほんの数年前、病気で亡くなってしまった。 友人たちはそれを知っているのだろうか。 まだまだ若いし、活躍の真っ最中だっただけに残念である。 本書を読んで、もっと語ってほしかった、という思いがいっそう強い。
故米原女史は言うまでもなくロシア語通訳の第1人者であったが、同時にエッセイ家としても有名であった。しかも、印象とは異なり下ネタをふんだんに交え、自身の通訳経験を踏まえながら、ユーモアの中に国の相違による価値観の違い、相互理解の難しさをサラリと語って読者を楽しく啓発してくれた。本書の題名は同時通訳にあたって「意訳ではあるが相手の顔を立てる訳を選ぶか、原文に忠実ではあるが相手には真意が伝わりずらい訳を選ぶか」という通訳者の究極の選択を意味している。
本エッセイも他のエッセイと同様、同時通訳における失敗談(他の通訳者も含む)や、相互理解の難しさをユーモアを交えて語っていて期待を裏切らないが、いつもより、言語論、比較文化論と言った点をキチンと語りたいという趣旨があったように思う。米原さんクラスになると通訳の対象となるのは政府要人クラスである。下手をすれば、国家間の問題となるような席で長年同時通訳を務めた米原さんならではの、言語観、国による価値観・文化観の違いを聞く事が出来、啓蒙させられる点が多かった。それも肩肘張らず楽しくである。
旧ソ連の政府高官にとっては日本の政治家より有名だった米原さん、ロシアの艶笑小話にはロシア人より詳しかった(?)米原さん、そんな米原さんの言語論、比較文化論が楽しめる爽快エッセイ。
米原万里さんの唯一の長編小説である。米原さんが書くものはほとんどがエッセイなので、最初は面喰ったのだが、読み始めたら最後、もう仕事をしてようが食事をしてようが、トイレに行こうが寝てようが、続きが気になって気になって仕方がないくらいの本だった。“米原さんの本の中で”という形容ではなく、“これまで読んだ全ての本の中で”一番面白かったと言っても過言ではないくらいだ。
60年代に通っていたプラハのソビエト学校で出会った踊りの先生の謎を解きに、ソ連崩壊直後の90年代にロシアに赴き、旧友との再会、新たな出会いを通して1930年代当時の謎を解いていく。スターリン統制時代の旧ソ連に於ける、残虐な粛清が次々と明かされて行く。謎が謎を呼び、その謎を追いながら物語が展開していく、いわば「謎解き」ストーリーだ。僕はその時代背景を全く知らずして読んだのだが、それでも非常に分かり易く、もっともっと知りたいと思った。残酷で過酷な運命を生き抜いた人々の姿は、何とも言い難いほどに力強く、かつ悲しい。人が人に対して、ここまでやってしまうその時代とは、一体どんな時代だったのだろう・・・まるで平和ボケしている僕には想像を絶する世界だった。“フィクションはノンフィクションよりも多くの真実を語ることができる”という言葉に納得した。
何度も読み返しているが、結末を知っていようとも、米原さんの文体は何度読んでも「おンもしろいっ!」と感じることが出来る。こんなに面白い本に出合ったことはない。
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