寿がきや 麺処井の庄監修 辛辛魚らーめん 135g×12個に続くスガキヤの辛いラーメン第3段。
前作の辛辛魚に比べると辛さはマイルドなもののこのラーメンに付属してる「コク辛スパイス」をかけると旨味と舌のシビレという珍しい美味しさに出会える。 ちなみにスパイスの中身は山椒メインの香辛料となっています。
麺はもちもちとしたちぢれ麺。歯ごたえもスープとの相性も素敵でした。 具はねぎや豆腐などのマーボーを思わせるような物を使用。乾燥しているのに後入れという不思議な使用です。(豆腐が入っているので水分を吸いすぎを防ぐ為かしら?)
個人的に前作の辛辛魚は好きだったんですが、いかんせん胃が拒否反応を起こしたので断念しましたが、このマーラー麺は辛いけれどもちゃんと最後まで美味しくいただけたので満足しています。
山椒で舌が痺れる感覚が好きな方は是非手に取っていただきたい一品です。
追記、アマゾンだとコンビニで買うよりは20円くらいは安いようです。
だいぶ前に購入して放置していたのを偶然発掘し、時間があったので通読してみた。マーラーの交響曲は好きな方で、1番から10番(+「大地の歌」)に至る各交響曲の成り立ち、特質、聞きどころ、同時代の他の楽曲との対比、などの詳細な紹介は、それなりに興味深く読めた。
とはいえ、「全体は行進曲調で、紋切り型の強弱反復から成る四分の四拍子。その冒頭はこの調子を支配するドミナント音のミから起こり、この調子を整える、トニック音のラに直接跳び上がるという、人類一般にとって最も原初的な音型に拠っている」(任意で拾った72頁=第3交響曲の解説)などという、楽譜が読めないシロウトには何のことか分かりづらい叙述が多く、いささか辟易したことも確か。労作であることは認めるものの、こうした難解な記述は、初版の出た80年代半ばには、いかにもカッコ良かったのかも知れない、といぶかしく思った次第。
吉田秀和の文章は素晴らしい。含蓄もある。私は彼をとても「文章作家」として評価している。
しかし、音楽は読むものではない。「聴く」という重く長い体験を経ないと、音楽を聞いたことにはならない。
その音楽を、吉田は「読む」という身近な体験で錯覚させてくれる。
つまり、彼は常に「読字ができる先天的音痴」の強い味方なのだ。
吉田は楽譜を引用したりするが、それはメロディが言葉で表現できないから書いているだけであって、そこに音楽的な含蓄と言うものはほとんどない。
吉田は自分の能力をだましていない。だまされているのはその周辺だけである。
吉田を崇拝している人は、音楽というものに魅力を感じつつも、結局その魅力は分かり得なかった、どちらかと言うと文字を読むことの方が好きな人、のことである、
それをすすんで告白するなんて、少し恥ずかしいと思わないか。
昨年末、ケン・ラッセルが亡くなった時に本作『マーラー』の再発売を叫んだが、嬉しいことにブルーレイとDVDで同時発売という事になった!
「知的な映画なんてありえない。全ての芸術は暴力であり、私の映画は、観客の感情に対する強姦だ」 などと言うケン・ラッセルは、あまりにも強烈で個性的な作風の映画を撮るので、まっとうな映画ファンから苦笑されたり敬遠されたりすることが多いが、わが国では、この作品が一般的には一番評価されたケン・ラッセル映画ではないだろうか。
しかし、やはり本作でも「ケン・ラッセル・ワールド」は健在(笑)。冒頭からエンジン全開だ。 湖に突き出した、マーラーの作曲小屋・・・を、いきなり炎が喰らい尽くす!高鳴る交響曲第3番。 ひび割れた鏡の中で絶叫するマーラーにタイトル・イン『MAHLER』。 ワルキューレの如く、両手を広げて誘う女。死せる娘たちの眼差し。石になったマーラーの横で、繭の中から白づくめの女が誕生する・・・。
物語の舞台は、1911年。NYでのコンサートを終え、ウィーンに戻る列車の中、病に冒されたマーラー(ロバート・パウエル)は自らの半生を回想する。ユダヤ人であるため、つらい思いをした少年時代・・・妻アルマ(ジョージナ・ヘイル)と、湖畔で暮らし作曲に没頭した事。天使のような、二人の娘。あまりにも哀しすぎる、その死。自分自身の葬儀の幻視。精神を病み、或いは自死を選ぶ弟たち。そして、己のエゴのために、妻の音楽家としての才能を封印させた日々・・・。 鉄路を人生に例え、過去と現在を往復する。そしてその人生は、「死」のイメージで彩られている。
この映画の突出した魅力は、やはり映像作家としてのラッセルの稀有な才能である。この映画の画創りには、彼のどの作品よりも、ロマン派の画家の影響が強く顕れている。劇中でも使用されている、ギュスターヴ・ドレーの銅版画に視られるような、絵画的映像。自然の美しさ、光と影の共犯関係、見事な構図には息を呑まずにはいられない。
さらに、ケン・ラッセル・ワールドの百花繚乱ともいえるのが、マーラーの爆笑改宗劇だ。音楽家としての地位を得るために、不利なユダヤ教を捨てて、カトリックに改宗するシーンは、「ニーベルングの指環」になぞらえて、サイレント映画のようなコミック・ドラマで展開する。ユダヤの星を、ヴァルハラに献上するためにやってくるマーラーを、ワルキューレのコスプレ(ナチスも入ってます)をしたコジマ・ワーグナー(アントニア・エリス)が待ち受ける。ユダヤの象徴を差し出し、サーカスのライオンの如く、炎の十字架を次々とくぐってゆくマーラー!ユダヤの星をヴァルハラの炎で、聖剣ノートゥングに鍛え上げ、いざドラゴン退治へ!(ドラゴンはブタだった!)そして「ワルキューレ騎行」の超オフザケ替え歌 ♪〜お前は、われわれキリスト教徒の仲間〜♪
そして、マーラーが自身の葬式を幻視するシーンでは、妻アルマが棺の上でタップダンスを踊るのを真下から見つめ、マーラーは絶叫する。ここでは、E.A.ポオの「早すぎた埋葬」に通じる、死への恐怖と誘惑がないまぜになっている。
ほとんど子供じみていると言ってもいいような、狂気のイマジネーション。 しかし、ケン・ラッセルの映画を観ていてはたと気づくのは、方や極度に演劇的なタッチで「作りこみ」ながらも、方や「自然への畏怖」ともとれる美しくも凄烈な風景描写が際立っているという点である。 作りこみが過剰な監督は、往々にして自然描写が苦手だ。ティム・バートンはまさに映画の要素を全部人工的に作りこんでしまい、監督によって計算できないもの(自然)の存在を許そうとしないような作風だ。またフェリーニは、人工物への偏愛としか言いようがない、アーティフィシャル・パラダイスを作る映画作家だが、やはり特出した自然描写というのはほとんど散見されない。 ケン・ラッセルは、不思議な事に「人工」と「自然」の両者をそれぞれ個性的に描く事を得意とする監督なのだ。
ほとんどコミック的と言うしかない数々のシーンに対し、この映画の中の風や水や火などの描写は、ラッセルの最高傑作とも呼ばれる『恋人たちの曲・悲愴』に負けじと美しい。そして美しいだけでなく、時にはそれは残酷で冷たいエレメントとなって登場人物たちを取り囲む。 これがケン・ラッセル・ワールドの醍醐味だ。
「私は家から汽車に乗って、巡礼のような旅をして映画館に行くんだ」と云っていたラッセル。その一方で、「映画はあまり見ない。残りの人生を暗闇の中で無駄に過ごしたくないからね。だが私の映画は別だ。見る価値があるから」とも云っていた。 映画をこよなく愛しながらも、傲岸不遜にして、天上天下唯我独尊。しかしいいのだよ。それが唯一無二の映画監督、ケン・ラッセルなのだから。 その映像世界に酔痴れよ!
最後に、今回のDVD再発(ブルーレイは初)で一番気になるのは、「ニューマスターかどうか?」ということ。 かつて発売されていたDVDは、VHSソフト時代のマスターを転用したものだったので、画面は暗く、色もくすんでいた。何よりもブルーレイで発売するなら、画質の大幅な向上を願いたいところだが、ソフト会社に問い合わせたところ、「マスターの製作はこれからなので、まだ判らない」との返答。5月ごろになれば判るらしい。「ニューマスター」の文字がこのソフトに追加されるのに、期待大だ。
ケン・ラッセルの逝去を追うように、ここにきて『トミー』など、おっとり刀でようやくソフトがリリースされ始めてきたが、未だ『恋人たちの曲・悲愴』、『肉体の悪魔』、『ボーイフレンド』(ツタヤの詐欺ソフトはノーカウント)、『リストマニア』、『狂えるメサイア』などはリリースの気配もない。ぜひとも『マーラー』発売が一過性のものではなく、ゼロ年代のケン・ラッセル再評価の先陣を切るリリースとなって頂きたいと切に願う。
金聖響・玉木正之両氏による講談社現代新書の「交響曲シリーズ」の第3作目です。 今回は2010年と2011年がアニバーサルイヤーであったマーラーの11の交響曲 (なお「第10番」はデリック・クック補筆完成全曲版)を取り上げます。 彼の11の交響曲の内容と魅力そして作曲の背景を解説し、 例えば、「交響曲第6番」は「最も純粋で圧倒的な作品」など、 現時点での思いを書き綴っています。
また名物の話の“横道”では、マーラーは夏目漱石とほぼ同時代人であり、 どちらも作品の出だしが印象的であり、東洋的な無へ接近した、 などの類似点があるとの指摘は興味深かったです。
現代の音楽の出発点に位置するマーラーの11の交響曲への理解がさらに深まる新書です。
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