人間にとって、記憶とは何か?を問ひ掛ける作品である。物語は、広島に滞在して居るフランス人の女優(エマニュエル・リヴァ)と日本人建築士(岡田英次)が、明け方の暗いホテルの一室で、抱擁を続けて居る場面から始まる。フランス人である彼女が、男に抱かれながら、広島で見た原爆に関する映画について語り、男が、それに答える。−−それに、原爆投下直後の広島の光景が重なる。−−朝を迎え、ホテルを離れてからも、二人は、1950年代の広島の街の風景の中で、会話を続ける。そして、やがて、女は、自分の過去を語り始める。女は、大戦中、占領下のフランスの農村で、ドイツ兵と激しい恋に落ちた過去を持って居た。そして、その為に、故国で、同胞のフランス人達から迫害を受けた過去の持ち主だった。−−
大学生の時に、都内の自主上映でこの映画を見て以来、ずっと、心に残って居る映画である。最近、この映画をこのDVDで見直して、改めて、この映画の深さに打たれた。だが、今回、この映画を見直して印象ずけられたのは、広島よりも、むしろ、女が回想するフランスでの出来事であった。一人の女が心に秘めた悲劇が、一つの国民の悲劇と同じほどの重みを持ち得る事を描いたこの作品が人間を見つめる視線は、イデオロギーからは最も遠い物である。歴史に埋もれた敗者の側の記憶を、イデオロギーとは無縁の視線で、見つめるこの映画の視線は、宗教的ですらある。また、この映画が映し出す1950年代の広島の光景には、今見ると、当惑させられる光景が多々含まれて居る。−−広島の戦後の光景は、「聖地」の光景ばかりではなかった事を、この映画は、私達に直視させてくれる。−−若い世代は、この映画をどう観るだろうか?
(西岡昌紀・内科医/広島に原爆が投下されて61年目の日に)
ひとは今にいて過去に生きる。あるいは過去のどこかで生きていたのかもしれない。過去とはそのひとの記憶にすぎない。ヨーロッパと日本。戦争の傷痕。それは博物館の陳列品だ。それらは過去の時間からも空間からも切り離され分類されて崩壊することなく曝されつづける。そして私たちはその意味からも死者たちからも固く遠ざけられている。この永遠につづく無の時間。それは物の死だ。記憶はひとの中にしか存在しない。いまいる「わたし」も「あなた」も、地球のどこか片隅にいて「今」という時間のはざまで不在のまますれ違っては離れていく。だから記憶は交感することもなく交差することもなく、ひとの中で時間を失ったまま留まりつづける。
今になってこのような写真が出てくるとは本当に驚きだ。それもエマニュエル・リヴァの手で。「24時間の情事」については、撮影から相当の年月が経過しているため関連する資料が少ない。この写真集は、驚きの連続であった。戦後10年、荒野の中にたたずむドーム。人々が敷地の中を自由に出入りしている。のんびりした時代だった。戦争の記憶が薄まるに従い、人々の平和への祈りがドームを神聖なモニュメントへと昇華させ、人々との間に超然とした垣根を築いていった。カフェどーむ。本当にあったんだ。ホテルは今も残っている。これを機に、昨年エマニュエル・リヴァは写真展を開くため来日した。もろろん歳をとったが、さっぱりした清潔感は今も昔もかわらない。町を歩くと偶然にも写真の少年達と再開する。原爆の放射能を浴びた少年、少女、50年は草木が生えないといわれていた不毛の町。彼らは50年後の今も同じ場所で変わらない生活をしていた。今年の夏は、この本を片手に広島へ行こう。そして50年前と同じ暑い夏を肌で感じたい。この映画を心から愛する自分は、本を閉じた時、そう思った。
広島の被爆を学習している時だった。外国ジャーナリストはヒロシマをどう見ているか、あるいは、当時の海外メディアはどう伝えたか等々を学習する中で話題に上った作品です。そういえば、昔そんな映画があったような気もするが、実際には見ていないものだった。早速ネットで調べたら、あったのです。当たり前かもしれないが。とっても嬉しかった!そして、良い作品だった。
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