ミュージシャンでもあり、精神分析学の教授である北山修氏が、九州大学を退官する
際の「最後の授業」をまとめた本です。また、この授業はテレビクルーも入っており、
「第三者」に常に見られながら行われているのですが、それも踏まえて北山氏は講義を
します。その模様はつい先日放送されたようです。
最後の授業ですから、精神分析学を志す学生たちに向けて、今までに積み重ねてきた
精神分析家としての知恵や技術を熱く、そして平易な言葉で語っています。
たくさんトピックはあるのですが、中でも興味深かったのは、
人間は誰でも「表」と「裏」がありますが、
この仕事は人の「裏方」を受け止めること、だからそれを厳しく自覚すること。
安易に話したり、ましてインターネットやメールにそれをつづらないこと、など具体論も
次々に出ます。
また、精神分析が人間にとって普遍的な問題だととらえるために、
「鶴の恩返し」や「古事記」など物語や伝説を引用しつつ、そこに現れている問題の
分析を試みています。
内容は大変に濃く、まとまりきらないところもあるのですが、講義形式ですので
大変読みやすい本です。
「共に視る」。北山修は、論文はともかく、一般書籍に自分の患者のケースをあげることを嫌い、古事記、浮世絵などから日本人の心を探る、という斬新な研究方法を試みた。この本では編者であるが、だからこそ、たくさんの「共に視る」論が読めることは大変ありがたいことである。
母と子は初め、母乳やミルクをもらうときみつめあっている。やがて、二人で「共に」きれいなお花やワンちゃんや猫ちゃんを「視て」「かわいいねー」などと情緒的につながりつつ、共視する。普通に育てられた幼児は、母と永遠に一緒にいるものだと思っている。何があってもべったりくっついて生きてゆくのだと、生きてゆくという意味も知らず、感じている。
しかし、別れの日は来る。自立である。母の手を、母の心を借りなくても世界を一人で視ることが出来るようになる。そして本当の自立で、母を愛しつつ別れてゆく。別居に限らない。同居していても「別々の人間」として歩み出す。
北山修は後年、1971年に書いた「あの素晴しい愛をもう一度」の詞に、書いた当時は気づかなかった共視論を見いだす。この唄の中で「ふたり」は決して見つめ合わない。同じものを共に視ている。そしていつまでもと誓い合ったのに、心と心が通わなくなる。それは嫌いになったのではなく、別々の人間になったのである。
まさに母子である。
「いなくなるから取り入れられる」。母は子とべったりの季節を過ぎて、初めて子供の心の中に定住する。頻繁に起きる悲しい母子の事件は、その母の母、さらにその母と子がどんな心一つの時期を過ごしたのか、過ごせなかったのか、きちんと調べなければ同じことが繰り返されるであろう。
テーブルを挟んで話すと緊張するが、カウンターに並んで話すとほぐれて話しやすい、という経験はないだろうか。これも「共視」である。大切な話をしたいときは、テーブルではなく、カウンターで話してみてはどうだろう。二人共に同じ方向を視ながら。
この本は、精神科医、日本人を看る医師・北山修入門に最も適した本のうちの一冊である。
NHK朝の連続テレビ小説「だんだん」の劇中で2人が歌うオリジナル曲。この歌で紅白を狙うらしい。
古事記上巻に書かれている現存最古の話などを中心にした神話が、現代まで続く日本人のメンタリティーに大きく影響しているのではないかと、「北山修」「橋本雅之」の両氏が専門分野を担当して解き明かしてゆく構成が読みやすかった。
フロイトやユング精神分析学までもツールとして、古事記などに書かれている神話の時代から現代まで脈々と続く日本人の深層メンタリティーを検証してゆくことが本書を読んで新鮮に感じた。
北山修氏が、有名な「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーだったことは知っていたが、ベスト・ヒットの”帰ってきた酔っ払い”の詩の内容まで引用して語る部分が面白い。
両氏が、環境汚染などに対して、人が生きてゆく限り「原罪」意識を持っていなければければならないと提言していることが、本書の最大のテーマなのかも知れない。
まあ、35歳にもコンサートやってたのか・・・と 購入。 今のお年のちょうど半分くらいでしょうか? 声はあまり変わらないなぁ・・・ と。
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