最近僕が好きになってきた谷崎潤一郎の作品と、この本とを、頭の中で比較しながら、読みました。
婉曲な表現で世界観を創りあげて、美という空気を漂わせ漂わせしている、谷崎の小説とは違い、 人間臭い部分、下品な部分が本当に鼻の中に入り込んできて、少し咽るかしてしまいそうな、直接的なものをこの本から感じました。
谷崎の活躍期とはまた違う頃の小説ですから、よりストレートな事を書いても時代が許してくれたのでしょうし、 だからこそこの本に描かれている、道徳と背徳との狭間で揺れ動く、登場人物の言動や心情というものから、
物語のリアリティを覚えられた僕でした。だがしかし、それでも官能的な描写を、 谷崎に負けず劣らず、美しく表現する吉行さんは、素晴らしいです。
僕の印象に残ったシーンは『驟雨』の、道子に髭剃りを借りたらそれが錆びていて、そこから、 『道子はこのカミソリを色んな男に貸したんだなあ』みたいな思いを抱く件です。
谷崎の作品にこういう心情が描かれていたら、その男は、瞬間はすごくヘコむけど、その後それを快楽の材料に変換させ、 そのまま突っ走るのではなかろうか?
一方で、結構アブノーマルな線までイッてしまうけど、でも冷静かつ現実的な考えも捨ててはいない、 登場人物に面白みのある、短編集だと思いました。
主人公に大きく影を落とす父親の存在が物語に奥行きを与えている。 吉行氏にとっては父親の存在はかなり大きいらしく、他の作品でも父親の行動に引きずられる息子を描いた作品がある。 息子にとって父親は「大人になるためには越えなければならない壁であり、またいつまでも越えられない壁なのだ」とは良く言われる事だ。しかし主人公のように父親が今の自分よりも若いときに死んでしまっているのでは「どうやって父親を越えたことを父親に知らしめることができようか」という嘆きも聞こえてきそうだ。 愛人と性的な関係に滑り落ちていくことに、主人公はあまり抵抗を示さない。迷い、ためらいながらも結局関係を深めていってしまう。これはどこかで「派手な生活をしていた父親」を越えることができる!かもしれないと言う、父親に対するライバル心の現れだったのではなかったのだろうか。 性的な表現に抵抗があるかもしれないが、上記のような背景を考えると主人公を単純に性的充足を求める輩と規定するわけにはいかないと思う。父子関係という永遠のテーマのひとつを扱った作品と言えるのではないだろうか。 表題作の原形となった作品が併録されており、対比すると物語の膨らませ方も楽しめる作品集だ。
昭和30年生まれの僕にとっても吉行淳之介氏は、ひと時代前の作家である。 短編の名手という話も聞く。表題作『娼婦の部屋』は完成度から言っても 吉行短編の代表作なのだそうだが、僕は心魅かれない。
『出口』は幻想的といえば幻想的だ。 ある場所に自ら進んで、あるいは半ば強制的に閉じこめられた男 (原稿が書けず缶詰めにされた吉行自身とも読める) そこににおいが漂う。 無機質、濃い蕎麦つゆ、親子丼、天ぷら、鰻の蒲焼き、焼いた豚肉 鰻の肝、鰻の血、生の肝、 そして鰻屋の兄妹は近親相姦を噂されている。
そういう小説ですが、なにか?
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