この本の原書のタイトルを直訳すると、「愛の技術」。フロムは、愛が、たとえばパン作りのように、鍛錬によって身に付けるべき技術である、と説く。だから、他の技術と同様、理論が存在するし、継続的な努力と鍛錬が必要だし、逆に正しい理論に基づいて正しく継続的に鍛錬を積めば身に付けられるものだ、とする。 鈴木大拙とも親交のあったフロムは、現代人が愛する技術を鍛えるために真っ先にやることとして、「一人でじっとしていられること」を挙げているのが興味深い。 「愛することのできる対象」を追い求めてばかりいてはだめで、自分が「愛するに足る成熟した人間かどうか」を考えなければならないんですね。目が開かれる思いです。現代社会を生きる人すべてにお勧め。
「愛」について社会心理学的に書かれた、学術論文的な一冊です。 翻訳がほとんど直訳に近いため、何が主語でなにが目的語か理解するのに苦労します。 また、一文が長いのでさらに理解が難しく、200ページ弱の本ですが、 読み終えるのにかなり時間がかかりました。 読み流すような本ではないと思います。 何度も繰り返し読んで行くうちに理解を深めて行くのでしょう。 専門家による和訳の利点として、むずかしい専門用語がうまく和訳されており、 原書を読むよりは日本語として直感的に理解できます。
内容ですが、「愛すること」とは鍛錬によって習得できる技術であって、 たまたま陥る状態ではないこと強調しています。 そして、大切なことは「愛すること」であって、「愛されること」ではない事も 一貫して主張されています。 また、母なる自然から離脱し、自分達で作り上げた人間社会の中において なぜ人間は「愛」を必要とするのか、その「愛」とは何なのか、 そしてどうすれば「愛」を得られるのか、ということが書かれています。 社会心理学的見地から見た人類への「愛」を唱えているので、 個人的な自己中心的「愛」は含まれていません。 それでも、この本を読めば心に響くところが必ずあると思います。
確かに、フロイトの理論やキリスト教徒の理念などを知らないと 良くわからないところが出てきますが、そういうところを除いてみても 得るものはたくさんあると思います。
とにかく、和訳された日本語が少々難しいです。 もっと多くの人に読んでもらうために、 もっと優しい日本語で書かれた和訳本の出版を期待します。
恭子さんの休暇物語でした。
セックスシーンは、普通に思えました。
静かなので眠くなりますが、
恭子さま信者のかたにはオススメです。
「経験は僕らに教えてくれる、愛するということは、お互いに顔を見あうことではなくて、一緒に同じ方向を見ることだと」。
フランス文学の代表的な名著のひとつ。最初に私が本書を読んだのはもう20年以上前のことだ。しかし、本物は時代を経ても色あせない。飛んで、戦って、愛して、生きたサンテグジュペリの魂が、本書を開くたびにまた新しい勇気をくれる。「救いは一歩踏み出すことだ。さてもう一歩。そしてこの同じ一歩を繰り返すのだ」。そして、ああ、そうだった、まだ何かできることはあるかな、と思う。
気の利いた言葉をくれる書物は巷に溢れている。しかし、「ぼくは、死を軽んじることを大したことだとは思わない」などと断言する知識人が現代に何人いるだろう。本書と、ヤワな自己啓発本や机上理論だけの哲学書の違いは、実はかなりはっきりしている。
「人間と、そのさまざまな欲求を理解するためには、人間を、そのもつ本質的なものによって知るためには、諸君の本然の明らかな相違を、お互いに対立させあってはいけない」。サンテグジュペリの著作は若いころにいろいろ読んだが、一冊となるとやはりこの本に行き着く。訳は確かにもう古いかもしれない。ただ、だからといって本書の価値が失われているわけではない。
主人公マヤは、野呂との関係が永遠に続くかのように思っていた。
しかし現実は、愛する男が他の女を愛してしまい、そこから生まれた苦しみに立ち直りゆく姿を描いている。
現実をわかっていながらも受け止められず、毎日苦悩する日々。回想する日々。。。
なんだか、わたしも同じような思いをしたことがあり、とても切ない気持ちが伝わってきました。
そして、決して自分の過ごした日々を否定しなかったマヤに、とても感銘を受けました。文中の表現を使うならば、鉛筆で描いたものを、無理矢理にでも消しゴムで消そうとしないこと。
事実は事実と認め、後悔などせず、別れてもなお、彼のことを思いやり過ごそうとする様子に、感銘を受けずにはいられませんでした。
この本は、少し恋愛観を変えてくれたような気がしました。
彼に優しくなりたい、彼を大切にしたい。彼に会いたい。。。そんな思いを感じさせてくれる1冊です。
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