潮のみちひきのように繰り返しの多い作品だが、文章が上手いので最後まで読めた。
この老人たちは何のため、こんなところへ通うのか。
大部分が既に勃起も射精も不能の老人たちである。主人公はまだ辛うじて可能らしいが、性欲は極度に低減していてほとんどゼロに近い。そんな老人たちばかりなのだ。さもなければこの老人たちは女の子相手に夜通し好き勝手な変体三昧に及ぶはずだが、それはタブーなのだ。そして老人たちは極度に禁欲的なわけでもない。つまり全員、性欲の干からびたおじいさんたちなのだ。だからこれはネクロフィリズムのようなエロティシズムを主題にした文学ではないのではなかろうか。
最後に主人公の見る夢は何とも寂しい夢だ。新婚旅行の帰りー花畑ー彼方のお母さん、という組み合わせが寂しいのだ。人生そのものの寂しさと儚さに胸を打たれる作品だ。
川端康成のノーベル賞記念公演の主題を見事に描ききった作品だと思われる。
モーニング娘。がすごくかわいくて、ストーリーも3つにわかれていているからあきないし、このドラマは何度見てもおもしろいから、まだ見ていない人がいたらぜったいおすすめします!
川端文学の旗手とも言うべき(?)代表作。短編なので教科書にも採用されている模様。
大学生の主人公が伊豆に旅行した際に出会った芸妓の少女(おそらくは中学生くらい)に対して抱いた淡い恋心を紡ぎ出している。
旅先での行きずり・・しかもまだ相手は少女で年下とくれば、当時の恋愛感覚を考えても「適齢期のラブ・ストーリー」としては成り立たない。
少女が温泉に入浴中に全裸を晒しても恥ずかしがることもなく、主人公に向かって手を振るシーンが「少女の純潔」を表現し切っていて、いやらしさもなくかえって爽快ですらあるのだ。
この作品があるおかげで、東京から伊豆に向かうJRの特急の愛称が「踊り子」になったぐらいなのだ。
それ以前の伊豆行きの特急の愛称は「あまぎ」(伊豆にある天城山のことね)だったのだから、康成の作品としてどれ程多くの人間に浸透していたかが分かるというものだろう。
決して「結ばれることの無い別離」も、前述したことを考えれば当然の帰結。
お互いに「いいな・・・」と思いつつも別れてしまう・・って事、人生において結構あるのではないかな。
1963年作品、カラー・シネマスコープ画面の贅沢な作り、
いわゆる恋愛映画として本作はもっと評価されていいとおもう、
西河監督は60年代は日活の青春映画、70年代は山口百恵主演映画を連続して担当した職人監督、大監督と皆から称えられることはない(遺作が「一杯のかけそば」という少々はずかしい履歴も残した)人だが、本作に関しては当時の邦画界がもっていた大きなエネルギーのようなものも感じられる本作に関わった人達すべてにとっての代表作とよんでもいい逸品だとおもう、
川端康成の原作小説は厳密には悲恋小説ではない、悩みを抱えて屈折していた青年が伊豆への小旅行中に踊子と出会うことで屈託から開放される青春小説と読むのが正しいとおもう、本作では青年の屈託部分を省略し、十朱・南田演じる酌婦と土建屋の若旦那(演じるはちあきなおみの旦那だった俳優)のエピソードを追加することで踊子側(渡世人)の哀れさが増しており、作品全体がラスト・シーンの別離へ連なるみごとな悲恋感と爽快感を獲得したとおもう、本作では小説のラスト部分が省略されているので未読のファンはぜひ一読をお奨めします、
吉永・高橋という新人の脇を支える大坂史郎・浪花智恵子が絶品の名演技、特に後年は脇役専門だった大坂の生涯の当り役だとおもう、この役の哀れさをここまで気高く演じられる俳優は現在では望めないとおもう、
東京オリンピック直前の本作頃には大正・昭和前期の雰囲気など苦も無く設定できたことも幸いしている、踊子達の衣装の粗末さは本当にその時代のようです、原作ではかすり袴なのに高橋が学生服を着ているので「けんかえれじい(1966)」の後が本作かと思ったら逆だった、高橋英樹の袴では老けすぎる印象だったからだろうと想像する、山越えのシーンで当時盛んに実施されていた拡大植林運動、つまり杉の若木が広範囲に植えられている山肌が映る、現在の花粉症の原因のひとつです、
冒頭は「なずな」というタイトルと異なる情景から始まる。しかし、だんだんと「なずな」らしい色彩を帯びた物語へと移ってゆく。「なずな」の成長と「なずな」の存在によって変わってゆく周囲。変わってゆく自分。本当は厳しい状況を淡々と爽やかに描いている作品で、いつまでも「なずな」の成長を読んでいたいと思った。
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