このほど、中国出張の際に、「月落ち烏啼いて霜天に満つ 江楓漁火愁眠に対す 姑蘇城外の寒山寺 夜半の鐘声客船に到る」という張継の漢詩「楓橋夜泊」で有名な蘇州の寒山寺を訪れる機会が得られた。
この漢詩もさることながら、私は、唐代にこの地の石窟に住んだという寒山(かんざん)と、その友・拾得(じっとく)という隠者に興味を抱いており、寒山寺で二人の画像を直に見たいものだと思っていた。幸いにして、この願いが叶えられた途端に、森鴎外の『寒山拾得』(森鴎外著、新潮文庫『阿部一族・舞姫』所収)を無性に再読したくなってしまったのである。
この短編小説には、地方のある高官が文殊菩薩・普賢菩薩の生まれ変わりと言われる寒山・拾得に遥々と会いに行った情景が描かれている。
「閭がその視線をたどって、入口から一番遠い竈の前を見ると、そこに二人の僧のうずくまって火に当っているのが見えた。一人は髪の二三寸伸びた頭を剥き出して、足には草履をはいている。今一人は木の皮で編んだ帽をかぶって、足には木履をはいている。どちらも痩せてみすぼらしい小男で、豊干のような大男ではない。道翹が呼びかけたとき、頭を剥き出した方は振り向いてにやりと笑ったが、返事はしなかった。これが拾得だと見える。帽をかぶった方は身動きもしない。これが寒山なのであろう」、「二人は同時に(丁重に挨拶した)閭を一目見た。それから二人で顏を見合わせて腹の底からこみ上げて来るような笑い声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた」。
この作品は、とかく難解とされ、いろいろと解釈されているが、私は、世間の価値観に囚われず、己の価値観に従い、寺の食器洗い係を務める拾得と、拾得に食器を洗うとき残る飯や菜を取っておいてもらう寒山の超然とした生き方に対する鴎外の憧れが底流にあると考えている。寒山・拾得は、中国、日本の多くの禅僧や文人たちが好んだ画題であり、良寛の敬慕の対象であったことは、よく知られている。
なお、『寒山拾得』を書いた背景を鴎外が述べた『寒山拾得縁起』も、『阿部一族・舞姫』に収録されている。
人の幸福の度合は人それぞれ違い、限りがなく、基準をどこに置くのかで、決まり一概に言えない。また罪とはなんなのか?を考えさせられる、内容に感動した。仏経の教えに通じると感じさせられた。
舞姫は、森鴎外の代表作で「自伝的」要素もあるので、主人公(大田)を誰が如何に演ずるか、が最大のポイント。篠田監督は、郷ひろみという「意外性」(ミーハー的興味)に賭けたのだろう。その賭けは半分当たったと言えよう。脇役たちが「戯画的」に描かれる中、中心人物達は実に「シリアス」に描かれている。郷も独逸語の特訓を経た様子が窺われるし、懸命の演技が好感を与える。監督は「写楽」でも葉月里緒菜を起用する等、芸術性と娯楽性を上手くミックスする手腕に長けている。ひろみ郷の新境地開拓と言って良いだろう。
新たに購入して読む気も起こりませんが、無料のうえ、kindle辞書機能で昔の文体でもなんとか読みこなせます。 古典を読むには最高です。。
舞姫は、森鴎外の代表作で「自伝的」要素もあるので、主人公(大田)を誰が如何に演ずるか、が最大のポイント。篠田監督は、郷ひろみという「意外性」(ミーハー的興味)に賭けたのだろう。その賭けは半分当たったと言えよう。脇役たちが「戯画的」に描かれる中、中心人物達は実に「シリアス」に描かれている。郷も独逸語の特訓を経た様子が窺われるし、懸命の演技が好感を与える。監督は「写楽」でも葉月里緒菜を起用する等、芸術性と娯楽性を上手くミックスする手腕に長けている。ひろみ郷の新境地開拓と言って良いだろう。
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