1ページ1ページを、食い入るように読みました。医師との相談など、どれをとっても大事なことに気づかされました。真剣に考えるとは、どういうことなのか、真剣に生きるとは、どういうことなのか、考えさせられました。ぜひ、皆さんに読んでほしいと思いました。
常盤貴子は美人ではあるのだが、色気や存在感が薄いのでTVドラマ向き。『波子』役の女優にはいっその事、高岡早紀の方が自由奔放で映画に深みが出た。
人生論という堅苦しさはなく、軽快に読むことができる。 仕事や恋愛(結婚)など、人生における重要事項はカバーしており、参考になる部分も少なくなかった。 なかにし氏は自らが癌であることを告白し切らずに治す試みをしているようであるが、マルチな才能を持った人物でもあるため、まだまだ活躍することを祈っている。
まず初めに僕は小説家が嘘つきだという事はきちんと理解している。つまり自伝と自伝的小説は大きく違う。これは小説家の多くが広く認めるところだ。 次いで僕に思想的抑圧はない。だから原文ママと言うかんじで感じたことを書く。
まずなかにし礼と言う人は何といえばいいか・・・ 日系満州人独特の、つまり大陸引き揚げ者独特のあの感覚を醸しだしている。彼は気付いているのだろうか。彼らは明らかに日本人だが何かが決定的に日本人そのものと違う。作家の五木寛之、清岡卓行、漫画家のちばてつや、動物研究家のムツゴロウさんなど大陸からの引揚者はやはり日本人そのものとは違う「空気」を持っている”日系”人が多い。
ここで書かれている内容は大きく端折るが、要するに旧満州で造り酒屋のボンボンとして過ごした家族が戦後の混乱で父を亡くし、小樽、青森、東京と貧困に苦しみながら過ごしていくストーリーである。 兄は特攻隊パイロットであったが、戦後性格は大きく変わり、事業に手を出しては失敗する。借金、女、ヒロポン(覚せい剤)と主人公が作詞家として成功しても多額の借金で主人公を苦しめ続ける。そして主人公はどうしても兄と離れられない。しかし最愛の母の死が主人公と兄の絶縁を産む。
僕が面白いなあ、と思ったのは主人公もまたまるで真人間ではないのである。面白い、他との違いについて大きく3つ書く。 1.家族は悪人だらけ 日本的視野で言えば、圧倒的に兄が悪であとの周りは善人と言うことになるのだけれど、現実問題そんなことは有り得ない。早くに死んだ父は善人だと言えるけれど「行かなくてもいいのに抑留されに行きすぐ死んだ」のように短く結んでいる。 母への悪口?は2001年の「赤い月」にだいぶ書かれているが、ここでも結構男好きで奔放な女性として描かれている。 一応は大金持ちの奥様だった人だけれど、引き揚げの時に冷徹に旦那を待たずにすぐに逃げたり、金歯を見せて現地人を追い払う様など「いかにも本能的」なのだ。 僕が思う大陸引揚者特有のそういった情感を廃した大陸的思想そのものへの憧憬と言うか感覚を著者は持っているように思う。 しかしどうしようもない兄はともかく、姉も17,8で彼氏がいたり、兄嫁も兄が開いた青森のキャバクラで「まんざらでもない」ホステスまがいのことをしている。 母は母で実兄の伝手で質屋を始めるが、ヒモのような男性に熱を上げる。主人公は、基本的には善人だが女に冷たい。兄と同様で女にはモテるのだが、「なんとなく」女を棄てていくようなところがある。それも「本人にもよく分からないけれど」と言う具合にである。 一家で参加したまるで博打打ちのようなニシン漁も含めて、日本人にしておくには彼らはあまりにも情熱的過ぎるし、怜悧なのだ。 そういう部分を書くことで非常に状況が鮮明に感じられる。一方でそういう風に突き放した感じの中でも、どこかしら愛情めいたものを感じるのだ。そういう部分は戦後の純日本人にすれば「不思議さ」になるのだ。 2.戦争のウソ、特攻隊のウソ。 これは本旨ではないと思うけれど。いい加減な兄ではあったが死ぬ数年前から戦友会との結びつきを深めていく。そして日の丸、軍歌のお葬式を願い、特攻隊の生き残りとして死ぬ。 主人公が調べてみると戦闘機乗りなんてのはウソそのもので「見習い」もいいところである。しかし戦友の多くは兄に同情的である。「気持ちとしては我々もそうであったし、月日が嫌な思い出を駆逐して良い思い出だけを残しても・・・いいじゃありませんか」と言う具合だ。 近年は戦前戦中の美化が甚だしいが、著者は戦争で父を亡くし引揚者として矢面にいたわけだが、そういう美化に対し非常に冷徹な視点をもっているように思う。 一種彼らのような従軍者に敬意を示しつつも、近年、戦争そのものが美化されていってる現状を視ているのではないかと思う。 そんなにキレイなものではなかったでしょ、と。
3.昭和のウソ、ニセモノ 主人公は貧困から高校も大学も満足に通えず、大学に行けないもどかしさからアテネフランセでフランス語を学び、そこからシャンソンの翻訳をし、そこから作詞業を始め、大人気作詞家となる。 平成になった途端に創作意欲が駆逐されるあたりに、大きく昭和そのものへの憧憬、愛着がある。 しかしながら主人公が昭和を代表するトップランナーであるならばいかにも昭和人と言うのは、不恰好で非論理的で徒手空拳である。 彼がついた職業や、その場その場での考え方は正に出まかせでしかない。 我々はまあ昭和人には一種の信条のようなものがあって、それに基づいて10年20年と生きて来て・・・と言う風に習ってきたはずだ。 『親やら祖父母は偉かったのだ』と。 しかし 芸能界と言う浮ついた世界の住民だと言う事を抜いてみても、著者の感じている「昭和」と言うのは非常にムチャクチャである。 これはなんとなく最近流行りの「日本的郷愁」のアヤシサを感じていた僕にとっては助けになった。
もちろん僕も著者と同様に「そういう日本」は別に嫌いでも何でもないのである。 できの悪い子どもでも可愛いように、できの悪い自分自身や親や社会もけっこう可愛いのである。 ただ僕らが教え込まれて来た「日本的理想」はあくまで「理想」であって彼らが現実的にそのように行動したかと言うと大きく違ったと言う事だ。
21世紀の日本に住んでいると、船はどんどん傾いていくのに、僕らはますます社会でパーフェクトでスーパーマンじゃなきゃいけないような感じが増しているような気がする。事実なれそうもなく、そういうのって救いようがない。 だからこういう小説で彼らのようなあらゆる面でいい加減で、出たとこ勝負で合理的で失敗の多い日本人男女がなんだかんだと人生をまっとうしかけている(今作でもっとも年下の登場人物の1人である著者は1938年生まれだ)ことが分かれば、それはそれで救いになる気がした。
いつも著者の立ち位置は「ええそんなことか、困ったなあ」と言うスタンスである。感情は無いわけではないけれど、どこか間が抜けている。引揚者である、兄弟であるから、と言うのもあるけれどその辺がなんとなく筆者の創るものに惹かれる要素なのかもしれない。 最初の奥さんが怒って5階から窓ガラスを突き破りありとあらゆる物を外に投げるシーンがあるが、主人公のスタンスは「うわあ。すっげえなあ」と言う手の、まるで他人事なのだ。
僕はなんとなしそこに「昭和者」そのものの人格を感じた。 僕らは数十年後に自分が死ぬ時に、両親や祖父母に対して、尊敬しないではない、と言うかそんな奇妙な感じになるのではないかと思う。お互いに悪気は無い、けれど彼らの持つ一種の特異な感覚は理解出来ないと思う。 100年200年たった時に、彼ら昭和人は何ら総括をせず、責任はいつも他人であり、それは長い時間を経て正当化され嘘になる。それが昭和時代であったと後年の人に言われるのではないか。 (それが良い悪いではない。ただそうであった、と。)
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