日本の旧軍隊、特に関東軍と言う組織の実態、日本独特の内務班制度の醜悪さを描いた傑作と思います。
第二次大戦末期の独ソ戦争や対日戦争におけるソ連赤軍の異常さがよく描かれている。 虐殺と強姦を繰り返しながら移動する彼らのクズさを 『何百万人のうちのほんの数人おかしくてもそういうことになる』という優しい台詞を吐いているが、ベルリンまで侵攻する過程で190万人を強姦したという調査結果が出ているのでほんの数人というレベルの話では無い。満州から朝鮮半島へ侵攻していく過程でもそうだ。 『かれらは日本ともアメリカ軍とも違う』という台詞で表現するのが精一杯だったのか。 そして、そんな卑劣な行いをするのは日本人も同じだった、というところを描いているのがこの映画のフェアで観るのがキツイところでもあるし、一番のテーマ。
第二部がやや緩慢なのにくらべて、第三部は戦争映画らしいつくりである。 「アカ」である標耕平(山本圭)が内務班でリンチをうける場面はすさまじい。 いま、これだけの場面をつくる度胸のある制作者はもういないだろう。
左寄りの反戦の台詞を拾いあげればきりがない。 しかし、いまの軽薄な反戦映画とちがうのは、たとえば滝沢修が冷静な資本家を演じているところではないだろうか。 滝沢修が演じる新興財閥の当主は、軍人とは一線をひき、冷静に事業をすすめる実業家として描かれている。 いま、この映画をつくりなおせば、資本家は高級軍人と一緒に酒池肉林におぼれるように描かれるのでは。
治安維持法がらみで逮捕された経歴のある役者が、冷静な資本家を演じる。 この映画のすごみは、こういうところにある気がする。 製作当時は、すごくもなんともなかったのかもしれない。 すごいと思ってしまうのは、戦後生まれの先入観なのかもしれない。
この映画を左翼映画と評するのは簡単である。 けれども、いまの目でみると、みずからの手をよごさないサヨクに対する批判に聞こえる台詞もたくさんあるのだ。 制作年を考えると、学生による生ぬるい反体制運動に対する皮肉がこめられている気がするが、穿ちすぎだろうか。 あれこれ思うと、日本の戦争映画は、昭和初期に生きていた人たちによってのみ、製作されうる気がしてくる。
山本監督は戦前は「母の曲」といった女性映画を多く手がけていた。成瀬巳喜男監督の弟子でもあった。戦後の作品群とは全く違うメロドラマが多く並んでいる。しかし、そういう積み重ねがあって、ここでの戦争下での恋人たちの苦悩も描けてのだと思う。 私の好みからすると、やはり話の軸の一つ、伍代由介・喬介の兄弟がどういう行動するかというところをもっと出して欲しかったと思う。でも要所要所に登場して、話を締めている。
ソ連参戦で、戦車部隊が国境を越えて押し寄せる。明らかに戦力の劣る日本軍は敗走を余儀なくされ、兵士はつぎつぎと倒れてゆく。勝敗が決まると、中国人の多くも公然の敵となる。人民の味方と一部で期待されたソ連兵たちがもたらしたものは暴行や略奪などからなる幻滅であった。そのような中で、ソ連軍の捕虜収容所から脱走した主人公は、厳寒の満州を、愛する人に向け引いた直線に沿ってひたすらたどる・・・。
この作品が書かれた時代、社会主義諸国は、まだ、多くの人々に希望と夢を与えていた。しかし、今現在、ソ連を始め多くの社会主義国が偽社会主義国であったことが歴史により審判されている。この段階で本書を読むと、政治的な偏りから自由になったところで素直に読むことができ、よりいっそう根源的なところで戦争批判と人間の条件を考えることとが可能となる。その意味で、20世紀から21世紀に切り替わって、本書がきわめて現代的な書となったということができる。
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