ロドニー・ブルックスはサブサンプション・アーキテクチャ(Subsumption Architecture)の発明により、生き生きとした行動を見せるロボットを地上に出現させた。
ブルックスは天才である。しかし、私は、ブルックスがデザインしたロボットたちが生き生きと行動することを理由に人工知能が備わっているとみなされていることに疑問をもっている。
ブルックスのサブサンプション・アーキテクチャが内蔵されているロボットは人工知能をもっているのではなく、人口本能とでも呼称したほうが相応しいような特性をもっている。そう捉えたほうが、誤解が生じにくいのではないだろうか。
生き生きとしていることや、自律的に行動できることは知能や知性とは無関係なのである。
スティーブン・ホーキングは身体が不自由ですが知性をもっている。人間の知能や知性の源はあくまでも言語使用能力にある。
キズメットが故障したら、生き生きとした印象が消えるかもしれない。故障し生き生きした表情を喪失したキズメットはホーキングのような知性を見せることはない。そして、故障が発生していない、生き生きとしているキズメットにもやはり知性はないのである。キズメットは自らの意志で言語を使用できないからである。
言語と知性というものはどうしても切り離せないはずである。
物事を見るという一見当たり前の行動にしても、言語を使用できる人間と、言語を使用できない機械とでは、事物の見え方は同一ではありえない。
誰もがご存知の、ルビンの壺のイラストが人間の視界に入ってきたときには、壺にも見えるし、向かい合っている人間の顔にも見えるはずである。人間ならルビンの壺には二種類の見方があると認識できる。しかし、機械には、ルビンの壺に異なる二種類の見方があるということを認識できない。機械には言語がないからである。
有名なうさぎあひるの図でも機械がうさぎにもあひるにも見える図だなどと考えることはできない。
機械にできることは、せいぜい、カメラ等の視界内の様子をデータに直して保存するなり出力するぐらいのことである。
蝦蟇が茶をたてているので茶釜と解釈させる判じ絵がありますが、人間なら、大きい蝦蟇が茶をたてている絵でも、小さい蝦蟇が茶を立てている絵でも、蝦蟇が横向きで茶とたてている絵でも、すべて茶釜と解釈するのだと理解できるはずでである。しかし、機械には、それらの絵をすべて茶釜であると解釈する能力など持たせることはできない。言語なしには知能や知性などありえないというのはこういった例からもわかるでしょう。
機械には多様な判じ絵やだまし絵を描くことはもとより、解釈することもできない。機械には言語がないからである。『ブルックスの知能ロボット論』を読むとブルックスはこの当たり前のことを飲み込んでいないのがわかる。
ロドニー・ブルックスは天才ですが、しかし哲学や言語学の知識は十分に足りているとは言いがたい。そういうことが理解できたので、興味深かった。
傭兵鷲見友之シリーズの「前進か死か」シリーズ最終章は舞台を再びインドシナに移した。ただし今回はベトナムではなく、影の戦争といわれたラオス、カンボジアが舞台である。北の補給路であるホチミントレイルの破壊は、政治的制約条件が多いアメリカのベトナムでの戦争の重要な課題であった。その結果ラオスには、一人当たりとしてはベトナムを上回る爆弾が投下された。私は少しラオスの南部の土地勘があるが、この小説の取材はしっかりしている。小説としても荒唐無稽なところは無く、面白く読める。まあこの手の小説なので人物の描写がステロタイプ化もそこそこあるが、全体としては楽しんで一気に読ませて貰った。 2004年2月19日
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