もうすぐNHKでもドラマ化しますし、相当認知度の高い作品で、あまり紹介する必要がない気もするのですが・・・しかし!あまりに好きな作品なので少し書かせてください。
当然星5つ。司馬遼太郎の作品で一番有名なのは「竜馬がゆく」かもしれませんが、個人的にはこちらの方が好きです。
明治維新後15年しかたたない弱小国家である日本が世界の一流国の仲間入りをするために(というか不平等条約を改正してもらうために)、涙ぐましい努力で陸海軍を増強し、結果として日清戦争で清を破り、さらにそのたった10年後にはロシア帝国というとんでもない超大国を相手に戦争を起こし、それをも結果的にではありますが戦勝国としてポーツマス講和条約に望むのです。当時としてはまさに奇跡としか言いようのない大番狂わせだったわけです。
明治に生きた3人の主人公を軸にその日清・日露戦争をジャーナリストのような視点で克明に描いているのがこの作品です。3人の主人公とは・・・陸軍初の騎兵隊を率い、当時最強といわれたコサック騎兵を破った『秋山好古』、日露戦争の勝利を決定的なものにした日本海会戦で、その作戦の全てを担った男、『秋山真之』、真之の幼馴染であり、明治期の俳句に革命をおこした『正岡子規』です。ちなみに真之は好古の弟です。
日本人ならば、読めば必ず日本人としてのアイデンティティーをそこに感じることでしょう。とかく第二次世界大戦の敗戦が直近の戦争として、よく取り上げられます。しかしたった100年前の同じ日本で、このような誇り高き戦争(もちろん戦争はよくありませんが)がおこなわれたということは皆が必ず知って欲しいことだと思いました。
日本人なら、とにかく読んでくれ!!!
子規の句は色あせない。 句の中に閉じ込められた情景は開いた瞬間五官に訴え、 色彩が、風景が立ち上がる。 そこにあるのは子規がその目で見た視線であり、 一瞬に凝結する味わいだ。
子規の句がなぜ生き続けるのかという もうひとつの理由はその情報量だと思う。 俳諧の「侘び」「寂び」が哀愁か、それとも 諦観なのか、現代のわれわれにはよくわからない。
子規の句は、ある意味で“気づく” という行為の集大成であるが、それで終わらないのは この世界を「見る」ことに対する、 文字通り生命を燃焼させた子規のすさまじいまでの執念が そこに見え隠れするからだ。
おもしろいのは、晩年になるにつれて 俳諧の決まりきった作風から脱却(逸脱)した結果、 かえって本来の俳諧の「侘び」「寂び」が鮮明に なってくる点である。 先鋭から普遍への回帰という子規の歩みは、 表現と人との関係に何かひとつの示唆を与えているように思えて とても興味深い。
自信を持って断言しますが、
このドラマの第一話は、近年のTVドラマ、邦画、すべてひっくるめた中でも、とびっきりの傑作です。
これ見よがしに悲しい場面を描いているわけでもないのに、わけもなく涙がこぼれ、胸がしめつけられる。
明るさには、それと背中合わせの切なさが寄り添い、
滅びゆくものが、青春の盛りを迎えようとしているものと、悲しげな火花を散らして交錯する。
明治と言う時代の本質とその魅力を、これほど見事に描ききった映像作品は、他にちょっと見当たりません。
この第一話と、それに続く第二話(これも素晴らしい出来です)は、この長い物語の「青春篇」とでも言うべきものであり、
次の第三話あたりから、主人公たちは、自立した大人としての過酷な運命に、本格的に身を委ねていくわけですが、
現実の人間が、無邪気な青春時代を脱して社会に乗り出していく時、少なからず戸惑い、いくばくかの苦しみを味わうのと同じように、
この物語も、大人になろうとするあたりで、少しつまずき、もがく風情が見えます。
ですが、最終第五話では、迷いをふっきったかのような落ち着きを取り戻し、
第二部への期待を見る者の胸にかきたてながら、ひとまずの区切りとなります。
こうやって見ていくと、この長い物語自体が、
この世に生を受けて、成長していく、壮大な、ひとつの人生のようにも思われてきます。
非常に魅力的な「青春時代」を持ったこの人生が、来るべき第二部で果たしてどのように成長していくのか。
それを見守ることも、私にとっては大きな楽しみのひとつですね。
成長、ということで言えば、主人公真之を演じる本木雅弘さんの演技は、
「モッくん」などという、過去のアイドルとしてのイメージを成層圏の彼方まで吹き飛ばしてしまうほど、素晴らしいものです。
一、二話では、いかにも田舎育ちらしいういういしさの漂う少年だった真之が、
最終第五話に至っては、
やがて、国家の命運を一身に担って、凄惨な海戦を闘うことになる人物にふさわしい、貫禄と凄味が備わって、見る者を驚かせます。
主人公の成長を目を見張るような鮮烈さで表現し得ている、俳優本木雅弘の成長。
色んな成長を、このドラマでは楽しむことができます。
いずれにしてもこの作品は、近来稀にみる傑作です。
TVで見逃した方は、DVDで鑑賞されることを是非おすすめします。
マンガと英語で近代文学を覗いてみる本。
明治から昭和初期の12作品が紹介されています。各作品には18ページずつ割かれていて、その18ページが更にいくつかの小部屋に分かれているので、どこからでも読めます。まるであらかじめつまみ食いされる事を想定しているかのよう。気軽に読める本ですね。
マンガと日本語と英語で粗筋が紹介された後、『キャンベル先生のつぶやき』という部屋では原文と英訳文が示されます。日本文学の専門家であるキャンベル先生が、英訳に際して感じたことなども書かれていて、敷居の低い本書の端倪すべからざる一面が垣間見えます。
文学の紹介本としてはかなり異色の一冊かもしれませんが、読み易いです。
俳句と和歌の革新者である子規を論じた書物は、その大半が熱烈な賛辞と圧倒的な高評価で埋め尽くされているのが通例だが、最近本邦に帰化して新・日本人となられたキーン翁のこのたびの評伝は、けっして贔屓の引き倒しの悪弊に陥らず、非常に冷静な語り口で終始していて、例えば子規に師事しながら「その人格冷血」などと指弾した若尾瀾水の悪口を紹介しているところなどが、かえって新鮮だ。
しかし脊椎カリエスのためにかのモーツアルトと同じく弱冠三五歳にして泉下の人となったこの偉大な文学者は、「詩歌」と「俳句」と「短歌」という日本語を創成しただけでなく、翁が結論付けておられるようにわが国の短詩形文学の「本質を変えた」のだった。今日私たちが「俳句や短歌で現代の世界に生きる経験を語る」ことができるのは、ひとえにこの早世した天才のおかげなのである。
古今集や新古今、芭蕉をおとしめた功罪は相半ばするとはいえ、万葉集を再評価し、実朝、蕪村を「発見」した功績は、子規の実作がそれらの影響を殆んど受けていないとはいえ、他の誰もがなしえなかった日本文学史への貢献であった。
また子規が童貞ではなかったこと、漱石と共に大学予備門で学んでいた当時の英語の実力を侮るべきではないこと、彼が生涯で九〇篇の個性的な新体詩を作ったこと、西洋音楽のレコードを蓄音機で聴いた子規が、(みずからヴァイオリンを弾き、ワーグナーを愛した彼より一九歳若い石川啄木には及ばないとしても)、想像力を駆使して三つの歌を創作したなど、博学のキーン翁ならではのエピソードも鏤められていて読み応えがある。
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