内田魯庵自身の交友関係を反映して、いろいろな作家が取り上げられていますが、私は尾崎紅葉についてのエピソードを一番興味深く読みました。もっと長生きしていたら劇作家としてより成功していたかもしれない(207ページ)とか、紅葉がいかに個人主義の人々の群れだった明治の「文壇」を硯友社としてまとめたか(222ページ)、そして、萬朝報が紅葉を読売から引き抜こうとして、原抱一庵が内田魯庵に仲立ちを頼んできた(226ページ)など、どれもその時代の息吹が伝わるような話ばかりでした。その他にも、他では見かけない資料として、尾崎紅葉の自画像(スケッチ)が入っています。彼が視覚的にどう自分を見ていたかがわかり、想像力を刺激されます。
「藩閥政府のつくりあげた上下のヒエラルキーに基づく官のアカデミーに対するもう一つの選択」(95頁)を実践した、集古会の人々そして内田魯庵をはじめとする「近代化の中で消えた粋で知的な日本人」(184頁)たちの印象的な物語。
「函底に埋もれたと見られる内田魯庵を拾い上げて、その埃を払ってみると、現われてくるのは、魯庵が密かに生きて、我々の時代には全く見失われてしまっているもう一つの世界である。もちろん、その世界をして我々の前に姿を現わさしめるためには読者の側にも忍耐が必要であるし、文学とか近代とかいったおおまかな概念規定はしばらくの間括弧に入れておいていただきたい。我々の意図するのは、教科書的な意味での日本の近代とやや外れたところに存在した知の原郷というものを訪ねあてることにある。この知のシャングリラは、ある日というより一九三〇年代に入って忽然と消えてしまったのであるが、その時期以前には、よい先達を得れば垣間見ることのできるものであった」(6頁)。 「とどのつまり、藩閥政府が築き上げようとしている、権力を中央に集め、薩長を中心とした少数の集団が情報を集め、情報そのものも、それを管理する人間たちも、役に立つ・立たぬの二元的価値を基に階層化しようとする統治機構が生み出すリアリティをは別の、知識・情報を自らの手で生み出し、それらを育て、自ら管理し、頒ち合いながら作り上げる、今流行の言葉でいえばオルターナティヴ(もう一つの選択)の現実、リアリティといえるものである」(66〜67頁)。 「文明の進んだ富める国には、必ずこの遊民がある」(95頁)。 「明治大正において、高等遊民とは、とりもなおさず藩閥政府が原則として排除した旧幕臣、または藩閥政府の重力圏の外に生きることを選んだ人々である」(96頁)。
本文庫版の発売と同時に読み進め、一年半ほどをかけて漸く読了した。微細にして博捜な描写は、読み飛ばすことを許さない緻密さに満ちている。しかし、苦行(?)の後には、読後の充実感に加え、新たに自らの視野が一気に拡がったかの如き充足感が待っていた。
「挫折の昭和史」「敗者の精神史」に続く三部作の最終巻。内田魯庵を中心とする近代日本の不可視のネットワーク。「群像」連載の内田魯庵の不思議、がベースだ。
|