確かに丸谷氏の文章論は括目すべき点が多い。 しかし、その氏ですら素人目にも明らかに誤っていると思われる箇所が存在する。特に、谷崎潤一郎がその著書『文章読本』で触れた、文法に対する意識について取り上げた一節がおかしい。 この中で、丸谷氏は「谷崎潤一郎が文法にこだわるなというのは、実のところ英文法にこだわるなという意味であり、国文法を指したものではない。これはテニスの初心者に水泳のつもりで手足を動かしてはならない、と教えるようなものではないか」と批判を展開している。 この批判は正しくない。なぜなら、そもそも明治以後の国文法というものが欧米の言語学、文法運用理論の触発を受けて成立したものだから、どうしたって欧米風の厳密な法則に基づいた文法体系として成立せざるを得なかった。それからすれば、国文法と英文法が極めて類似した厳密性をはらんでいるのは当然のことであり、谷崎が国文法と英文法を同義として取り扱ったのもまたごく当然の話ではないか。 要するに谷崎は、 「今日の国文法というものが従来の日本語の性格を無視し、欧米の文法と同じく曖昧性を一掃したものである以上、伝統的な和文脈を書こうとする際に差障りとなる、だから文法にとらわれず書け」と言いたかっただけの事である。 この谷崎の真意はその『文章読本』で、昨今はとにかく文法的に正確を期し、論理的な運びを重んじるあまりに和文本来の味わいが損なわれている、と苦言を呈しているあたりからも容易に推察されるはずである。 大文豪たるもの、まさか単純に英文直訳風の日本語を書くな、といった次元の低い論理を振りかざすはずはなかろう、と考えるのが普通だと思うのであるが。 とはいえ、最初に触れたように谷崎に劣らぬ文章論を披露していることもまた事実である。何だかんだいっても、やはり一読に値する一冊といえよう。
全く個人的であるが、私は本書を私に託された遺書として読んだ。生前読んでいたら何と言ってよいか判らなかったかもしれない。
前半は奥の細道論としての芭蕉伝、後半が源氏物語論としての紫式部伝になっている。 一言ずつで言って、芭蕉は自身の文学的転機とすべく西行や宗祇と謂うよりは寧ろ義経を慕って奥の細道を旅したという説、紫式部は藤原道長に教示されて自身の源氏物語から第二巻である「輝く日の宮」を秘匿することになり焼き捨て隠したという説、それぞれを現代の国文学者・杉安佐子を主人公にしてシンポジウムや論文、私生活を描くことで織り交ぜながら展開する。これは作者丸谷自身が最後に抱いた感懐でもあろう。 そこに愛人の社長候補・長良との男女関係が付与される。 長良とは本編では姓名であるものの、紫式部の父母を辿った系図上の藤原氏直系男子の名前でもあることは偶然ではないだろう。長良は紫式部の両親に共通の祖なのである。
ところで、本編でテレパシーという言葉が二箇所だけ使われる。 源氏物語が初めて触れられる安佐子との会話での長良の台詞で一回。長良が安佐子にプロポーズする直前の場面での安佐子の台詞で一回である。 これは、まるで本長編小説が濃密な一度だけの会話ででもあるかのようである。 敢えて極端に言えば、本書は作者の私への手紙であった、もっと言えば優しい同性愛の恋文であったとさえ思え読めるのである。
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