深夜に放映されたもののDVD版。TVでも見たが大体TV放映された場面が収録されていた。これは後編なので、コンビニでの買い物場面やラクダの牧場でラクダに乗る場面、そして見せ場のリビアのTV放送局に生出演の場面が収録されている。ザキヤマはアンタッチャブルの時はそれほど面白いとは思わなかったのだが、おぎやはぎとの「そこそこスターゴルフ」を見てザキヤマのウザイ笑いが癖になってしまった。ザキヤマは相方の柴田と絡んでいるより、おぎやはぎや有田と絡んでいる時の方が生き生きとしている。(多分、柴田はザキヤマのターボがかかる前に突っ込んでしまうのだろう。ザキヤマに好き勝手やらせて、あとは編集で摘まんだ方が視聴者には面白いものができるのだろう。ピンになってから面白さが増しているように感じるのは、面白くなる前に止めてしまうツッコミがいなくなったからだと私は分析する)ここでは一人でどうなることかと思ったが、スタッフや街角の人たちを巻き込んでいつものウザさを発揮。いちいち細かいボケを織り込みつつリビアを巡る。ザキヤマ好きの方なら十分楽しめます。 ※追記 現在2011年2月、リビアが豪いことになっています。このDVDにも登場する町中にあったカダフィ大佐の看板なども破壊されてしまったんだろうな…。こっちの後半のジャケはカダフィーの大佐の看板の前でポーズをとるザキヤマだもんな。これは貴重なショットになりましたね。それにしても、これに出てきたリビアの人々はそれなりに楽しそうに暮らしているようには見えましたが、大佐に対する不満が募っていたんですね。
たぶん、貴重な映像資料になるでしょう。 昔、カダフィの蝋人形と記念撮影しましたが、蝋なのにオーラが尋常じゃありませんでした。 カダフィT欲しいです!
2010年から始まった「アラブの春」についての、重信メイという独自の個性だからこそ書き得た総括とも言える本である。この本はアラブ世界の日本人が持っているイメージを衝撃的に変える本である。その中には私たち日本人の認識が微妙にずれてしまっているものも含まれる。たとえば、アルカィーダやイスラム同胞団という組織など。
彼女の伝える「アラブの春」は我々日本人が西側の報道機関を通じて知るものとはかなり違っている。どうやら西側の報道機関はプロパガンダ機関に成り下がってしまっていたようだ。アルジャジーラもまた今回の「アラブの春」の報道では今まで築き上げたブランドをすっかり台無しにしてしまったと重信メイはいう。
チュニジアで始まった「アラブの春」はアラブにとってどういう意味を持ったのか、彼女はアラブの国一つ一つについて語っていく。チュニジアやエジプトとリビアでは「アラブの春』と言っても意味は全く違うのだという。アラブの世界は本当に複雑だということがこの本からは伝わって来る。
エジプトの「アラブの春」は民衆革命であったが、いざ革命は成し遂げてみると出来た政権は民衆が求めていた政権からは遠く不満だけが残った。しかしそれでも今回の革命はエジプトにとって前進には違いない。しかしリビアはどうか。こちらは本当に民衆が求めた「アラブの春」だったのか。リビアにも「アラブの春」がなかったわけではない。カダフィーのリビアに問題がなかったわけではないからだ。しかしリビア政府の崩壊やカダフィーの暗殺は実際には「アラブの春」が利用され横取りされた内戦だったという。
シリアでは今も内戦が続いている。シリアに関する報道は反政府側に一方的に肩入れして報道機関自体がシリア政府の転覆を狙っているかのごとくである。そのこと自体最近徐々に知られるようになっては来たが、今も基本的にはその報道姿勢は変わっていない。レバノン生れの著者はそれが故の独自のネットワークで実際に起きている事実の真実を明かしている。彼女は友人、知人だけでなく政治犯として刑務所に入っている人間にまでインタビューする。貴重な第一級の情報だ。
私はぜひ一人でも多くこの本を読んでもらいたいと思っている。というのはアラブ世界の出来ごとは日本にとって無関係ではないからだ。それどころか世界の外交は中東をめぐって動いている言っても過言ではない。間違った情報を取り込んでしまうことは国家の命取りだ。そして情報は政府だけが知っていれば良いという話ではない。国民レベルで出来るだけ多くの人が正確な情報を得ることが重要なのである。
プロパガンダを信じてしまうこと、それはメディア戦争を一方的に仕掛けられ操られてしまうことを意味する。「アラブの春」にはメディア戦争の一面があった。
関連文献 シリア アサド政権の40年史 (平凡社新書) 中東のゲットーから (That’s Japan)
本書によれば、現地の発音に近い名前の表記は「ムアンマル・アル・カッザーフィ」だそうである。 この、カダフィ大佐の毛沢東語録とも呼べる『緑の書』
以下にその文言を引く。体制として民主主義を標榜するが “『緑の書』は、代表制や代議制の介在しない明快で実際的な直接民主主義を実現するものだ”とする。 また“「民主主義とは人民が政治をコントロールすることである」というような時代遅れの認識に 終止符が打たれ「民主主義とは、人民がみずからをコントロールすることである」 という正しい認識がそれに取って代わるのである”と説く。 ほかにも違和感を持たざるを得ない文言には次のようなものがある。 「新聞は社会がみずからを表現するための手段であり、個人や法人の表現手段ではない」
カダフィ大佐の行動と主義を知る上で大変興味深いという点においてのみ★5つである。
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