生と死、寺山修司の真骨頂、名作です。このラジオドラマシリーズの中でもずば抜けていると思います。ここにレビューするのが煩われるほど、傑作、名盤です。ご一聴を!
吉田茂がテーマというよりも昭和天皇の、戦中戦後史である。
2003年の、謝罪の勅語の草案発見など最新の知見に寄りかかれています。
天皇が退位を望み、そしてマッカーサーと吉田に説得されて
断念するなど、面白いです。瀬戸内寂聴などが偉そうに退位すれば
良かったと書いていますが、それが浅はかである事が分かる。
また中曽根も退位論者でありそれを茂は、非国民というところが、すごい。ウェツラーなどが、ソ連参戦まで天皇は戦争を止める気は無かった
と自著で述べるも、吉田の憲兵隊による逮捕のいきさつを読めば
すでに20年の初めに、平和論者に傾いている事などで、
それが嘘であると分かるとおもう。岩波にしてこんな戦中戦後史に
当たる本が出たとは、驚き。左翼は捨てたのかな?
原自我Ur-Ichは間主観性でもなく、受動的綜合でもない新しいテーマだと宣言するが、叙述は平板陳腐で新発見もなく刺激的ではないので新田義弘や谷徹の本のやうに興味深く面白くもない。
カントの超越論的演繹とフッセルの超越論的還元の何処が違ふのか、単に方向を逆にしただけではないか?ライプニッツとデカルトに象徴される、多と一の問題、は古典存在論とどう違ふのか。明証性と必当然性の独断性を否定し、飽くまで明証とエポケといふ媒体の中で現象学的に解明されるとするが、『コギトが根源的生としての先在性に包含される機能であることは容易に理解出来るが、現象学するコギトにより始めて明証化され、生は解釈に先行するが解釈がこのことを確定する、といふ入れ子関係(Selbsteingliederung216)』178とは実は,循環論でしかないのではないか? それとも現象学は単に見ることの方法論に過ぎないのか?現象(学)の媒体Medium性とはハイデッガーのいふやうに中動相つまりフェノメノンのことではないのか? 超越論的還元の現象学は神に全世界が還元されるといふ意味でドグマ的神学であり、超越論的演繹は哲学である。と言へないであらうか?
間主観性の超越論哲学を主張するかに見えるフィンク、トゥゲントハット、ワルデンフェルス、トイニッセンに反対し、哲学史的な知識のないフッセルに忠実に感覚的明証性を必当然的apo-deiktischと強弁し、やたらに『原Ur-』を付けた概念を導入し、それを明証だとする。 フッセルの必当然的明証とはausgelegbarでexpliziertbarといふだけのことでそれも方向性だけが示されるもの、何故なら明証は究極的審級として自己を示すものではないから。293
著者はそれを思惟の自己責任と強弁する、何故なら一つの真理は無限に確証されて行く可能性があるから。294 懐疑論と区別された批判論(超越論哲学)でなく、直接に自分自身の明証源泉の上に立つから批判的であり人間の究極的な自己理解とする295が根拠はない。
堂々巡りで一向展開はないが、案の定、結論と見られる最後の第7章(必当然性の間主観性)は全くの期待外れである − Paarung, Spiegelung,einfuehrungなどでは間主観性は(必当然的に)基礎づけられぬことは周知のことである。 エゴ・コギトの界域のうちには他者の存在確実性は含まれてゐない(哲学入門、145)だが他者がこの次元で全く問題にならぬとしたら、超越論的間主観性への問ひを立てることは出来ぬが、駆り立てる不確かさとして他者の告知が働いてゐる。287f 他者の経験は最早本来の意味での現象ではないので本来的意味で明証的な言明は為し得ない・・・彼は自我の絶対的明証を主張しつつより安定的になり得る自我の形而上学を展開することがなく、他者といふ現象について語る。それは純粋な記述として読むことが出来る。他者の存在が意味するのは彼がラディカルに現前してゐないといふことが他者の所与性であり、レヴィナスに於いてのやうに他者は異他的なものとしてのみ経験され無場所的u-topie、非次元的a-dimensional、なものとして現出する(デカルト的省察、144,139)288f もし仮に、意味的・志向的に開示され得る超越論的経験の体系が、最終的に誰の視ることでもないある一般的な視ることだとすればこの体系は意味のない(或は反証可能性のない)完璧な理論であることになる。291 カントなら人間は何よりも人格であるが、フッセルにとつては他者は異他性Verfremdungであり非自我でありモノとの区別も着かない。
普遍的な意味解明として自己を規定する現象学は現実的な他者に到達することは出来ないのだらうか?といふ懐疑に対し、他者の現存は理論により保証されねばならぬものではない。297 如何なる言明からも独立な不動の哲学自体はない。フッセルは哲学を常に充実への途上にある無限の課題として理解する297f フッセルが超越論的な哲学者の共同体について語る時。そこに問題とされてゐるのは・・・間主観性のみでなく寧ろ理論のうちには決して包摂し得ない理論の最も自明な異他なるもの。299 フッセルは諸々の意味の宇宙を、その一貫した明証構造に於いて研究することによつて・・・体系的な根拠づけを試みる。その際、原自我と呼ばれる問題次元が明証構造の究極的な投錨地ないし媒体として姿を現す。まさしくこの原自我とその流れる現在が、諸々の意味の宇宙から原理的に逃れ去るものとして自らを示して来る。300
若大将シリーズを髣髴するCD。 ベスト40と一緒に買ったので、重複もあったが、買って良かった。
今から4・5年前、大学入りたての頃に喫茶店で時間を潰しながらよく聴いてたアルバム。などと言うと、「風をあつめて」の歌詞の様ですが、実際、音楽好きな学生達が楽しんで創っている情景が感じられて、大好きでした。 日本のビートルズと言っても過言ではない彼等ですが、サニーデイサービスやキリンジ、ハナレグミ等、現代の注目ミュージシャンへの影響もはかり知れません。日本的な情緒を匂わせながらも、音は極めて60年代の英米ロックよりであり、明らかにクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングや、ザ・バンド等の影響がかい間見えます。「夏なんです」のギターリフはどう考えても、モビーグレイプと言われる方々も結局は好きなんです。元ネタどうあれ、はっぴえんど唯一無二のサウンドです。 大瀧詠一の1STアルバムが極めてビートルズ以前のポップス、フィルスペクターを匂わせるものであるのに対し、こちらの大瀧氏の歌唱はどう聞いてもバッファロースプリングフィールド。器用な方なんですね。「ロング・バケーション」等の洗練されたAORよりのサウンドとは違った骨太さ、イナタさが濃縮されています。そんな部分にもスティーリー・ダン的な要素を感じてしまいます。 また、カントリーやフォークを独自に煮詰めた細野氏の「hosono house」、現代的な視点からフリーソウルやボッサとも言える鈴木氏の「band wagon」どちらも合わせて大好きです。 はっぴいえんどの1STの出だしのギターサウンドを始めて聴いた時から、洋楽コンプレックスの様なものが氷解された方も多いと思います。
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