おおむね収録されているのは貫多を主人公に取る私小説に属するものですが、その中で異彩を放つのが『悪夢――或いは閉鎖されたレストランの話』です。
あるレストランに棲み着いたねずみの一族と、レストランで働く人間の暗闘をねずみの視点から書き綴ったものですが、簡潔な表現の中に妙な生臭さが横溢してます。
その生臭さは、おそらくは作者が物するところの私小説の作品群の中に立ちのぼる臭いと同じものに思えます。いつもの西村賢太と片付けてしまうにはちょっと惜しい佳品です。
大森南朋さんが好きで観たのですが、彼の出番は少なく、個性的過ぎるその他の出演者のなか、ちょっと印象がぼやけてしまったようでした。お父さまの麿さんも出演されていますが、こちらはほんのちょっとの出番で強烈な印象を残しています。 原作も好きなのですが、アマのよどんでいて緊張感漂う雰囲気が映画にもよく出ていると思います。原作を読みながら想像していたときより、臓物をさばくシーンは臭いそうな感じで、それがまた主人公の虚無感みたいなものを際立たせているように感じました。映画のほうがちょっとコミカルで、さらに原作にないシーンが効果的に挿入されていて、また違ったおもしろさがあると思います。
10月末のある朝、出掛けの時間にふとワイドショーを見ると、「赤目四十八瀧心中未遂」という文学作品が映画化される、とやっていました。制作が鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」の方、大楠道代さんが出演されると聞き、そのとたん、20年ぶりに血が騒ぎました。しかし、自分は今はまっとうな社会人。その朝は自分で自分を諭し、出勤いたしました。 しかし、その何日か後、古本バザーで「赤目四十八瀧~」を見つけ、これは何かの因果に違いない、と思い購入致しました。直感は的中。久しぶりに危うい美的感覚に彩られた正しい日本文学を味わいました。楽しみのないわたしはさっそく次の日、残業で遅くなったにも関わらず(+ウチで2人の子供が待っているにも関わらず+お金ないにも関わらず)駅構内の本屋で車谷長吉さんの著作をさがしてみますと文春文庫に「金輪際」を見つけました。待ちきれず、電車の吊革にぶら下がりながら読んでみますと予想はやはり違わず、おいしい上質の小さなお菓子をむさぼるように少しずつ読みました。 マンガ家のつげ義春氏をご存知の方は、氏の作品が提供してくれる「気持ち悪い+気持ちいい」みたいな感覚にあい通じる所を見出されるかもしれません。死に通じる道をいつも意識されている方には「暗い私小説」というステレオタイプな感想ではなく、豊かな奥行き深い世界を見せてくれる作品群です。島尾敏夫、福永武彦なんかも系統だと思います(車谷さん万一これを読んでも怒らないで下さいね)。これを読んで救われるヒトというのはいる気がします。わたしもその1人です。
車谷の作品はどうしようもなく、私の心に響いてくる。一般常識からいったら全く道理に合わない生き方。まるで本能の赴くまま自由に生きている。思ったとおりに生きている。みんな彼のように生きられない。守るものにがんじがらめになっている。でも小説家の彼はいう。全てうしなってからこそ、本当の生き方が始まる、のだと。ある新聞の人生相談(かなりアナーキー)では前出の考えだからこそ、「9割の人間は本当の人生を生きていない」相談者を「小心者」と言い捨てる。
でもね、小心者の僕たちはあなたのような生き方はどうしたってできないのです。できないからこそ、あなたの作品を読んで心をかき乱されるしかないのです。だからこそあなたの作品から逃れられなくなるのです。
車谷長吉氏については、この作品で直木賞に輝いた作家であり、 慶應大学卒でありながら、アウトロー的人生をおくってきたという ことぐらいしか知らなかった。何となくコワイ人という印象を持って いたので、彼の作物を読むことはないし、手にとることもなかった。 だが、朝日新聞の人生相談の回答を幾度か読み、その文体から漂う 声音に惹かれ、図書館へゆき、あるだけ借りて読んだ。うちのめさ れた。赤目四十八滝というところが実在することも知ったし、この 作品に登場するひとびとは、彼が事実上、かかわったことがあり、 50%はフィクション(騙り)であったとしても、ぶちまけられた 真っ赤な血をみるように、凄まじいリアリティをもってわたしの 意識に現れ、そして徘徊するようであった。アヤは汚濁の中に咲く 睡蓮である。おびただしい血が流された戦(いくさ)の犠牲者を弔う目的で 中尊寺が建立されたと聞く。中尊寺の泥沼には清らかな睡蓮がまどろむ ように咲いていた。汚泥のなかの崇高な美と清らかさ。ラストの数行に 身動きもできないくらい呆然となった。 長いことアメリカの女性作家、ジョイス・キャロル・オーツに惚れ こんでいたが、微塵もなく消え去ってしまった。ほかの作家たち、 とりわけ村上春樹などはニセモノだ。物陰に隠れ、盗み見するような 作風は、自ら血を流し、うめきながら書いてゆく営為とは真逆である。 いまのいまになって、本物にであえた。
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