著者自身が「私小説作家」を標榜するだけあって、この作品でもその持ち味は存分に発揮されている。とにかく一筋縄ではいかない著者のパーソナリティーが垣間見れるようで面白い。そこが嫌だという人もいるでしょうが・・・。
本書『鹽壺の匙』と、エッセイ集『文士の魂・文士の生魑魅』の文庫本2冊をまとめてレビューさせていただく。一部ではよく知られていることだが、『文士の魂・文士の生魑魅』では、時代遅れの私小説に身命を賭している、貧乏で、女性に持てない<私小説家・車谷長吉>の過去の不名誉なエピソードが数多く披露されている。この不名誉なエピソードは、表面的には、<私小説家・車谷長吉>のキャリアの迫真性を側面から保障しているかのように受け取れる。しかし、私たちは、これらのエピソードの発信源が氏自身だという事実を忘れてはならない。というのも、<私小説家・車谷長吉>のセルフ・イメージは、従来の私小説作家とは少し趣きが異なっていて、車谷長吉こと本名・車谷嘉彦氏の演出によるメタ・フィクションという性格が色濃く、エッセイの中でのみ存在する人物といってもよい。<反時代的毒虫>という得意のコピーも、氏が大学卒論のテーマとしたカフカの「変身」に由来する虚像の一つだ。
ところが、『鹽壺の匙』収録の短篇小説の場合は、故郷・播州飾磨(現・兵庫県姫路市)の一時代前の風土がもたらす生活の困難さと濃密な情感が見事に描かれていて、小説固有の自律的な世界観が提示されている。この事実は、氏がエッセイよりも小説で本領を発揮するタイプの作家だということを暗示している。しかも、冒頭の処女作「なんまんだあ絵」が特徴的だが、地の文と会話が区分されていない文体のせいで、太宰治や野坂昭如などと同様の<話体>の小説と錯覚しそうだが、実は<文学体>の小説であって、氏の構築的な小説世界への強い志向性が透けて見える。他の短篇小説も、氏の<文学体>の力強い文体によって、細かいエピソードが必然性の強い連環を持たされて、重厚なストーリーが構築されている。たぶん、氏は、『文士の魂・文士の生魑魅』の場合も、同書に収録したエッセイの内容はすべて事実だ、と自己弁護しながら、自らの経歴のなかから不名誉なエピソードのみをピックアップする方法によって、いつの間にか、<私小説家・車谷長吉>という虚像の造形を成功させている。私小説家でありながら、この骨がらみとなった意外な虚像志向こそが、氏のストーリー・テラーとしての力量を側面から保障していると思う。
P.S. 本筋とは無関係の些事だが、やはり気になるので一と言。本書所収の「吃りの父が歌った軍歌」の中に、「…蜘蛛はそれを知らずに口から糸を吐き、脚を動かしていた。」(p240)とあるが、蜘蛛はお尻から糸を出しても、口からは吐かない。車谷氏はどうも蚕と混同しているようだ。文庫本化されるまでのどこかで、編集者も気づかなかったのだろうか。
尼 臓物の串刺し 冷蔵庫に保管された辞書 不自然に青い空 刺青 夜顔 愛のないSEX コインロッカー 蝶
この映画には<死を連想させるアイテム>がたくさん登場する。モツを串刺しにする時や刺青マシンで肉を削る時に生ずるピチャピチャという耳障りな音にさえ死臭が漂っている。作家崩れの漂流物・生島役に<さしすせそ>を旨く発音できない俳優をキャスティングした点にも、監督の作為が感じられるほどだ。
作品全体が<死>の気配に包まれてはいるが、ルイ・マルの「鬼火」のようなドスンとくる暗さを不思議と感じない。それには、天性の明るさが染みついた大阪に近い立地と荒戸監督の気質が影響しているような気がする。赤目四十八滝という場所も、関西地方の人ならば誰もが知っている観光スポット。けっして華厳の滝のような自殺の名所ではない。
自分の居場所をみつけられない男は、地縛霊のごとく尼に住み着いている人々からも結局は追い返され、再び死に場所を求めてさまようことになるのだろう。蝶を追いかけて見知らぬ場所まで辿り着いてしまった少年のように。
朝日新聞に連載された車谷さんの名(?)迷(?)人生相談を選りすぐったものです。
その回答もさることながら、車谷ファンにとっての読みどころは、奥様高橋順子さんの慈愛がいかに車谷さんにとって生きるつっかえ棒のようなものになっているかがしみじみと伝わってくる、その自然でとぼけた手ごたえにあるといえるのではないでしょうか。切なく、苦く、甘い味わいになっているように感じます。
「80近い夫がまた悪い癖(浮気)を」という相談に対して「一生直りません」と淡々と答えた上で、たとえば次の一節。
【私は死の日が来るのが楽しみですが、うちの嫁はんは三日に一度は「くうちゃん、長生きしてね」と言うています。「くうちゃん」とは、私のことです。私は死ぬまで、お金を稼がなければなりません】(P.99)
ここは本書の勘所ではないかもしれません。ただ、全体に、一見すると救いのない、突き放すような回答をするように見えて(見せて)、その実、阿呆あるいは悪人であるからこそ正機を差しのべられて救われる(で、いいですよね)後光の在りかについてはひとこと触れないわけにはいきません。その点で本書は人生相談嫌いの方にもお勧めできます。そもそもだれかに勧める本ではなさそうですが。
たしかに毒虫にしては甘いともいえます。でも楽しく読み終えたので5点。こっそりお勧めしておきます。
それにしても悩み多き人よ人の世よ、ですね…。
|