内容は内ゲバ事件に倒れた諸派の活動家、当時の状況や襲った党派との対立点などについて幾人もの事件をつづったもの。
筆者はいわゆる青ヘルの幹部だった人物。自戒を込めとにかく第三者的に諸事件をフラットに報告したものだ。
これをして内ゲバの克服に資そうとか、自己批判まみれ坊主ざんげの羅列のような境地から書かれたものではない。 当時はこうした細かい「新聞報道のような」事情が表には出ず、ひたすら襲った党派は「誇大妄想狂」のように機関紙で報じ、対するに襲われた側はいかにも「痛くもかゆくもない」かのように装うといった、よく言えば宣伝戦略。悪く言えば負け惜しみでしかレッキとした殺人事件の重みを手先で片付けてきた。
そうしたやる前もやった後も、人命軽視の日常化があれだけの支持を自ら振り捨てて来て今にちに至った。 先に触れたがこの本の意味はそうした取り繕いでもなんでもなく、当時、当然周知でなければならないヒトの痛みや、同士を失った重みをそのまま伝えたという(だけの?)意味。それだけでも貴重な、知っておくべき文献なのである。
自分自身も、当時報じる立場にあった者として、この程度の事実経過を明らかにしようとしただけの筆者が、執筆中に某派(複数?)からの脅迫や妨害を受けたようだが、イカニモあいつらなら…と、こうした行為を遮ってきた卑怯者どもの”いまだ健在”ぶりを知り、あえて、『それならば出版の価値あり』と、本書の存在価値を”追認”するプロモーション結果となっているのは痛烈な皮肉である。
負けずにもっと続編を書いて欲しい。
「真幸くあらば」と言うタイトルは、万葉集の有間皇子の「磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」と言う歌から引かれています。
それは、この本の主人公が南木野(榊原)淳と言う死刑囚であり、その「獄中養母」である榊原茜に出会うことにより、「死」までの限られた期間の「生」をしっかりと全うしようとする姿を捉えているからです。
更に、「解説」に丁寧に書かれている様に、「エロイーズ」「新エロイーズ」を踏まえた熱烈なラブ・ストーリーでもある訳です。
しかも、それぞれ宗教や身分と言う障害があるのに対し、本書は国家、権力と言う障害がある訳です。
従って、この本は単なるラブ・ストーリーではなく、「死刑」において国家が人を殺す権限がどこにあるのか?とか、死刑囚の人権の問題とか、様々な問題が投げかけられます。
宗教的にも、「殺人」が何故罪なのか?と言う素朴な疑問が投げかけられます。
戦争と言う場においては「国家」と言う名で「殺人」が正当化され、「死刑」と言う名で「国家」が「殺人」をするのと、どう峻別するのかと言う訳です。
様々な問題を提起しながら、主人公二人の秘密の往復書簡が交換される形で、この本は構成されています。
その書簡の間を繋ぐのは、教誨師である牧師が関係者との会談です。
榊原茜の正体が語られるあたりから一気に物語は急展開します。
このあたりの構成の上手さは、「新エロイーズ」の挿入の仕方と共に素晴らしいと思います。
「真幸くあらば」と言うタイトルは、万葉集の有間皇子の「磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」と言う歌から引かれています。
それは、この本の主人公が南木野(榊原)淳と言う死刑囚であり、その「獄中養母」である榊原茜に出会うことにより、「死」までの限られた期間の「生」をしっかりと全うしようとする姿を捉えているからです。
更に、「解説」に丁寧に書かれている様に、「エロイーズ」「新エロイーズ」を踏まえた熱烈なラブ・ストーリーでもある訳です。
しかも、それぞれ宗教や身分と言う障害があるのに対し、本書は国家、権力と言う障害がある訳です。
従って、この本は単なるラブ・ストーリーではなく、「死刑」において国家が人を殺す権限がどこにあるのか?とか、死刑囚の人権の問題とか、様々な問題が投げかけられます。
宗教的にも、「殺人」が何故罪なのか?と言う素朴な疑問が投げかけられます。
戦争と言う場においては「国家」と言う名で「殺人」が正当化され、「死刑」と言う名で「国家」が「殺人」をするのと、どう峻別するのかと言う訳です。
様々な問題を提起しながら、主人公二人の秘密の往復書簡が交換される形で、この本は構成されています。
その書簡の間を繋ぐのは、教誨師である牧師が関係者との会談です。
榊原茜の正体が語られるあたりから一気に物語は急展開します。
このあたりの構成の上手さは、「新エロイーズ」の挿入の仕方と共に素晴らしいと思います。
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