ちゃんと時を経ながら物語を進行して、アイテムあり調教ありとそれはそれでいいのですが、やっぱり事務的作業になっちゃうんだよなあ。 いわゆるムフフなシーンもそうした事務的作業一辺倒で半減してしまうかなあ。 メイドスキーならいいかもしれませんが、個人的に好きですよ。 もちろん。
学園は卒業式で物語は終わってしまいましたが、
また単発でいいので卒業後のハル達の話が読みたいです。
それに、なじみの生徒が卒要しても、新入生で学園の話は読みたかったなあ。
むちゃくちゃな設定で最初はびっくりしましたが、
内容は純愛でロマンチックで、ちょっとエッチな乙女向きだと思います。
ミケランジェロ・アントニオーニはもともと好きな映画監督のひとりだが、この『欲望』は個人的には別格だ。60年代のヒッピー文化やサイケデリックなどのアンダーカルチャーに興味がある私にとっては至宝。1966年、まさにスウィングしまくっていたロンドンの空気をアントニオーニらしい視点で、単なるポップアートとしてではなく、抽象的にひとつの時代をひじょうにうまく切り取った映画だと思っております。しかし40年以上の時を経てもいまだに批評家にはボロクソいわれることもある作品。そんな映画のサントラがこれであります。
当時ビートルズ一色であったロンドンを描くのに、アントニオーニはジャズを使いたいと言い切ったということです。アントニオーニ自身、かなりのジャズマニアだったそうで、スコアを依頼されたハンコックはその造詣の深さに驚いたとのこと。こうして曲目をながめてみますと、ハンコックのスコアがずらりと並んでおりますが、実際にはほとんどボツにされたものばかりだった......というのは、劇中で誰かがラジオをつけたり、レコードから流れてくるというような、いわゆる「ソース・ミュージック」という使われ方ばかりであったからです。ハンコックのスコアをアントニオーニは結局、そのようにあくまでも自然に利用することとし、大部分は切り捨てたのであります。どうりで、メイン・テーマとエンド・タイトルとヤード・バーズの楽曲以外はどのシーンでどのように使われていたのかあまりピンと来ないような感じではありますが。
さて、今回の発売に関して特筆すべきは、前回EMIより発売されたものとの比較にもなるかと思いますが、トゥモローというバンドによる未発表曲が2曲ではありますが、日の目をみたことであります。このトゥモローというバンドには、後にイエスにギタリストとして在籍するスティーヴ・ハウがメンバーにおりました。毎度毎度とってつけたようにヤード・バーズのライブシーンばかりが傑作だと言われることに辟易している方もおられるかと思いますが、アントニオーニはまず、クラブのシーンにトゥモローを起用しようとしたらしいのです。しかし気が変わったのか、ヤード・バーズに変更となりました。アントニオーニはジャズ以外にもポップスを提供してくれるアーティストにもこだわりを持っていたらしく、人気絶頂のザ・フー、さらには海を越えてニューヨークのアヴァン・ロック・バンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドにまで声がかかっていたという面白いエピソードもあるのですよ。
このアルバムを聴くとわたしはいつもスウィングしてしまう。60年代への憧憬を胸に、スウィングするのである。一番はやはりといってはなんだが、ストロ―ル・オンなのだが。
60年代という時代は香港でも熱かったようで、そんな喧騒の時代を背景にいい男といい女達が惹かれあい、そしてすれ違う様をひたすら描いた映画。ただ、「花様年華」の続編ということを物語的に踏まえないと、単に女にだらしない中年男の独りよがりな恋愛遍歴映画になってしまうのが辛い。(主人公は「花様年華」の男で、その後小説家になっている。「2046」は彼が本映画内で書くSF的私小説のタイトルである。)
描かれるそれぞれの恋愛模様はそれなりに魅せるが、ここに描かれた「その後」の無頼派女たらしストーリーに「花様年華」の切ないラストが繋がってほしくなかったかなと。(「花様年華」でマギー・チャンが扮したかつての愛人が小説「2046」内ではアンドロイドとして出てくるが、「古くて壊れた」アンドロイドとして一瞬映るだけだったりする。で、その小説のヒロインはフェイ・ウォン扮する下宿屋の長女がモデルの別のアンドロイド。。)その辺の寂しさから星は渋目につけました。
どんな俳優でも「はまり役」に出会うと、そのイメージからなかなか抜けられなくなるもの。ビビアン・リーは「風と共に去りぬ」の強烈なイメージ、「哀愁」の可憐なイメージとどの役も印象が深い。
その意味で、この作品を選んだ意味は大きい。全く違うし、見ていてぞっとしてくる。映画ではあるが、スタンリーのマーロン・ブランドのやりとりは舞台そのもの。2人のぶつかりあいが凄い。
正に名作中の名作。1度は見てみるべし。
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